死刑とベルトコンベア  2007年10月1日

やなシーンを思い出した。チェコ映画だった。詳しいタイトルなどは忘れたが、ナチス占領下のプラハの裁判所。抵抗運動の活動家たちが次々と死刑判決を受ける。裁判官が判決を言い渡すと、被告人は両脇を抱えられてそのまま隣の部屋に。そこにギロチンがあって、すぐに死刑執行である。その瞬間、シャワーの水が勢いよく出て、吹き出す鮮血を水圧で落とす。判決を言い渡す裁判官の口許と、水の吹き出るシャワー口を交互に、繰り返し描く。上訴を許さず、司法大臣の命令も必要なく、判決即処刑が「粛々と」行われていく。そのあまりにも機械的なやり方に、背筋の寒くなる思いだった。

  福田内閣が発足した。「背水政権」(『読売新聞』9月27日付一面解説の言葉)。首相自身が「背水の陣内閣」とネーミングしたからだが、「閣僚、上書き保存」(『朝日新聞』9月26日付)といったパソコン時代の表現で、「お下がり内閣」「居抜き内閣」等々と批判されている。安倍内閣末期については何度も書いたので、この内閣の顔ぶれについて論評することはしない。ただ、鳩山邦夫法務大臣が、再任はないと見込んで思わずもらした一言が、あのチェコ映画のシーンを思い出させた。

  鳩山法相は、25日の総辞職後の記者会見でこう述べた。「判決確定から半年以内に執行するという法の規定が事実上、守られていない。法相が絡まなくても、半年以内に執行することが自動的、客観的に進む方法はないだろうか。…(確定の)順番通りにするか、乱数表なのか分からないが、自動的に進んでいけば『次は誰』という話にならない」(『毎日新聞』9月25日付夕刊)と。「順番通りに」云々の前に、「ベルトコンベアと言ってはいけないが…」という一言が入っていた。法務省を去るにあたって、気楽に発言したものだろう。ところが、その直後に再任が決まり、当日夜の記者会見ではあわてて軌道修正。「乱数表などと言ったのは少し反省している」と述べた。発言直後に周囲から批判を受けて「少し」修正したのであろう。しかし、はっきりと「言ってはいけない」「ベルトコンベア」と「乱数表」と自覚をもって言ってしまっているのである。そして、「『この大臣はバンバン執行した。この大臣はしないタイプ』などに分かれるのはおかしい。できるだけ、粛々と行われる方法はないか考えている」と語り、省内に「勉強会」を立ち上げる意向を示した(同紙9月26日付)。
   新聞やテレビのニュースでは、「乱数表」という言葉は拾っているが、「ベルトコンベア」という例えは省いているところが多かった。どこの民放だったか記憶にないが、私は法相がこの表現を使うところをみた。あまりにも不適切な発言だから、メディア側が気をつかって、この言葉の紹介を抑制したのだろう。

  国民新党の亀井静香氏は直ちに反論し、「法相の資格もなければ、人間の資格もない」と激しく非難した。「福田首相にも任命責任がある」とも指摘した(『毎日新聞』9月26日付夕刊)。なお、亀井氏は、超党派の議員からなる「死刑廃止推進議員連盟」の会長である

  鳩山発言を最も早く社説で取り上げたのは、『毎日新聞』9月27日付「『署名なし死刑』暴言に法相の資質を疑う」だった。他紙はベタ記事扱いで、「ベルトコンベア」という言葉も使っていない。『毎日』社説は、「ベルトコンベア」や「乱数表」という言葉を使った発言は、「人命を軽んじ、厳粛な法制度を冒とくする暴言である。…時の法相の個人的な信条なとで執行が左右される現状への疑問を述べたものとみられるが、法相の職責をはき違えていると言わざるを得ない」と強く非難。執行命令書起案に関わる法務省刑事局から、執行にあたる刑務官に至るまでの「死刑の現場」の悩ましい事情を紹介している。その上で、死刑執行過程の最高責任者である「法相として不用意で、致命的な失言である」と指摘し、こうした発言を知りうる立場にありながら再任した福田首相の責任を問うている。

  鳩山法相がなぜ「乱数表」という言葉を使ったのかは分からない。暗号に関係した言葉であり、誰が次に執行される のかを「くじ引き」で決めるみたいな発想である。「ベルトコンベア」に至っては論外である。もともと大量生産のラインで、流れ作業を円滑に行うために発想された装置である。死刑制度を維持している国も、法治国家である以上、ベルトコンベア式に死刑を執行することはできない。また、法務(司法)大臣の地位にある者が、死刑について「ベルトコンベア」という言葉を使えば、ヨーロッパならアウシュヴィッツを想起させるだろう。まったく不見識である。鳩山法相の問題意識は、大臣の執行命令を簡略化して、悩ましい判断をしないでもすむようにして、「罪の意識」を減らしたいということだろう。だが、死刑に関わる現場からみれば、きわめて無責任な発言とうつる。

  死刑が確定すると、死刑の執行は法務大臣の命令による。その命令は判決確定から6カ月以内に行う(刑事訴訟法475条)。法相が死刑執行命令書に署名捺印すれば、5日以内に死刑は執行される(同476条)。心身喪失の状態にある死刑囚は、「法務大臣の命令によつて執行を停止する」(479条)ことになっている。つまり、死刑の場合、確定判決があり、司法判断が一応終結しても、執行に至るところでワン・クッションおいている。例えば、無罪を訴えている死刑囚が再審請求をしているときは、執行しない。法務大臣の裁量を介在させることによって、より慎重な運用をはかる制度設計になっている。司法の段階で死刑が確定したのに、法務大臣がそれをストップしているから、権力分立違反だという議論はあたらない。
   ただ、大臣によっては、23人も一度に執行命令書に署名した人もいた(田中伊三次元法相)。だから、執行命令の段階で、大臣の「個性」が反映するという面は確かにある。だが、それも制度は折り込みずみだろう。一端判決が確定すれば、「粛々」とベルトコンベアのように執行がなされる方が、むしろ異様である。死刑囚のなかにも冤罪の可能性どころか、冤罪の蓋然性が高い人もいると思われる(袴田事件の袴田死刑囚、名張毒ぶどう酒事件の奥西死刑囚)。この人たちも、ベルトコンベアにのせるのだろうか。

  法務大臣のなかに、宗教的信念から執行しないというようなところがクローズアップされて、それが鳩山発言につながる背景にあることは確かである。小泉内閣の杉浦正健元法相(05年10月〜06年9月)は、執行ゼロだった。死刑執行の署名はしないと明言したので、よく知られている。他方、安倍内閣の長勢甚遠前法相(06年9月〜07年8月)は10カ月に10件も執行した。死刑廃止条約が調印されて以降、日本は「事実上の死刑廃止国」の仲間入りをしかかった時期がある。それを止めて、執行を再開したのが後藤田法務大臣だった(1993年)。後藤田氏は、「死刑執行がいやなら、法務大臣を引き受けるべきではない」という一言を残した。それ以降、死刑執行は一桁台が続くが、長勢前法相は初めて二桁にのせた。鳩山法相が前任者と前々任者の際立った違いを受けて発言したことは容易に想像がつく。だが、そうした違いが出ないようにするため、ベルトコンベアのように粛々と行われる仕組みをつくろうというのは間違っている。

  ちなみに、長勢前法相は、9月25日の首相指名選挙で、投票用紙を座席に忘れ、木札だけを渡すという失態を演じた。その後改めて投票したが、その時にも木札を渡したため、投票用紙の数よりも木札が一枚多いという結果になった。国会史上、前代未聞。河野衆議院議長が、「国会議員の重大な使命を真摯に受け止め、任務を遂行して欲しい」という苦言を呈した。テレビで議長の冒頭発言を聞いて、最初は意味がわからなかったが、長勢前法相のとんでもな行為への注意喚起だったと、翌日の新聞で知った(『読売新聞』9月26日付夕刊)。何とも情けない。「安倍お友だち」の一人で、わずか1カ月前まで法務大臣をつとめ、10人の死刑を執行した人が、こういうミスをやったわけである。10人処刑には安倍内閣の強い姿勢をアピールするという狙いがあったといわれているが、他方、長勢前法相が内閣改造直前に3名処刑したのには、疑問が投げかけられている(『朝日新聞』8月23日付夕刊)。

  なお、鳩山発言について、ネットでは反応はまったく逆である。例えば、Yahoo!の意識調査では、鳩山法相への支持は82%に達している(反対14%。10月1日現在)。
  メディアを通じて、犯罪の生々しい状況や当事者の声が繰り返し伝えられることで、普通の人々の間で、厳罰化感情が増幅されている山口県光市の事件についても、「死刑は世論」という傾きである。死刑廃止は世界の趨勢である。日本の死刑への異様な執着は、この国の法文化の水準を示唆する死刑は憲法36条が「絶対に」禁止している残虐な刑罰にあたるという正面からの議論が必要であると同時に現にいる死刑囚104人を念頭に置きつつ、代替刑の検討をする段階にきているように思う。そうしたなか、鳩山法相の発言は、きわめて不謹慎であるのみならず、歴史逆行的な性質のものといえよう。

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