国会議事堂を覆う――日本とドイツ 2010年12月6日

6 月に1年ゼミで国会見学をやったが、そのゼミ長に頼んで、10月26日の「国会風景」を撮影してもらった。まるで国会の現実を象徴しているかのような、 どんよりとした灰色感がある 。実は、政権交代が起きる2009年8 月30日総選挙の前日、私は 国会の「73年ぶりの化粧直し」の写真を撮った 。議事堂の背後にクレーンが見えるアングルは珍しいだろう。なお、自民党本部と民主党本部の、 総選挙前日の警備車両の数の違いにも注目した

  このところ、国会やその周辺に行くたびに、化粧直しにより、議事堂の外壁が白さを増していくのを感じてきた。いまは灰色のカバーもない。だが、国会の中に目を転じると、灰色どころか、お先真っ暗と言わざるを得ない。いったい、国会はどうなってしまったのか。

 第176国会が12月3日閉会した。私はかつてこの直言で、 「国会議事堂は『表決堂』になったのか」と書いた 憲法59条2 項の「3分の2再可決」で法案が「粛々と」成立していく状況も批判した 。しかし、今国会はまともな採決すら行われず、内閣提出法案(閣法)37本のうち、成立したのはわずか14本である。「ねじれ」状態で召集された臨時国会における法案成立率としては、最低水準だった。これで「立法」府と言えるか。

菅直人首相は所信表明演説で「熟議の国会」を掲げたが、 「防衛計画大綱」 武器輸出三原則 の「見直し」問題など、国の基本的あり方にかかわる重要問題が、ほとんど議論なしに進められている。これでは「粛議の府」ではないか。

 本来こういう重要問題を審議すべき予算委員会も惨憺たる有り様だった。例えば、女性大臣がブランドのジャケットやスカートなど、しめて225万2700円なりを着こんで、国会内でファッション雑誌の写真撮影に応じたことをめぐり、かなりの時間が使われた。答弁もひどいが、質問もひどい。予算委員会のメインの審議がこれだ。ある議員は質問のなかでこう言った。「もっと大事な問題がたくさんあるのですが…」。だったら、それをやったらどうだろうか。なお、この女性大臣はかつて、次のように語っていたという。「1円の重みがわかっていない人に1 円の徴収権はない。…その感覚は政治家全員が持つべきですし、私はそうありたい。…総理という選択肢も私の中では否定しません」(工藤美代子「女性大臣の金銭感覚」『産経新聞』10月30日付より)

 国会が大きく空転した背景には、稚拙な国会運営があったことは間違いない。「ねじれ国会」が異常なのではない。与党内も複雑に「よじれ」、与野党関係が完全に「こじれ」てしまい、国会がまともに機能しなくなったことが問題なのである。それを加速したのは、閣僚の一連の「国会軽視発言」だった。あまりに多いのでいちいち列挙しないが、柳田稔法相のそれは特にひどかった。

  「法務大臣は2つ覚えておけばいい。『個別の事案についてはお答えを差し控えます』と『法と証拠に基づいて、適切にやっております』と。この2つなんです。まあ何回使ったことか」。国会は「言論の府」と呼ばれることがあるが、そこに横行する「言」は、失言、放言、暴言、虚言、妄言、三百代言…のオンパレードだったのではないか。

 これ以上、国会の惨状についてコメントすると、ますます体調不良になるので、ここで、議事堂の外観の「白」にこだわってみよう。実は、ドイツの国会議事堂が一度「真っ白」になる場面に立ち会ったことがある。1995年6月から7月にかけてベルリンに滞在したときに、見慣れた議事堂の様相は一変していた。ある芸術家がポリプロピレン製の布で、議事堂をそっくり「梱包」してしまうというパフォーマンスが行われていたのだ。それは本当に驚くべき光景だった。かつて改修のため 早大大隈講堂が白く覆われたことがあったが 、ドイツの議事堂の場合は「梱包」そのものが目的だった。

 

  ところで、日本の国会議事堂は、空襲で破壊されることもなく、建設時の形を維持しているが、ドイツの国会議事堂はその様相を何度も変えてきた。

 「ライヒ議会」(Reichstag)は第二帝政期の1884年に 建設された 。立派なドームをもつ重厚な建物であった。1933年2月、ナチスの自作自演の放火事件により炎上。1945年5月、 ソ連軍との激戦地となり廃墟と化した

 冷戦時代、この建物は西ベルリンにあって、議会としては使われなかった。ドームのない建物は「帝国議会」(Reichstag)として 西ベルリン観光の目玉の一つとなった 。ただ、“Reich ”を「帝国」と訳すのは正しくない。ドイツ革命後のヴァイマール憲法も“Reichsverfassung”と呼ばれたが、「帝国憲法」ではないから、「ライヒ」は「国」というニュアンスである(後に転載する拙稿では「帝国議会」というタイトルを使っているが、こういう意味であることをお断りしておく)。

 旧西ドイツ時代、首都はライン河畔のボンに置かれ、 ライン川沿いに連邦議会があった 。どこかの 町の市役所のような建物で 、およそ 一国の国会議事堂のようには見えなかった 。「ドイツ統一までの仮の姿」というその「暫定性」が、 議事堂の造りにも反映していたのである

1990年のドイツ統一後、「首都はボンか、ベルリンか」の長い議論の末、「首都ベルリン」が決まり、 1999年秋、連邦議会はベルリンに移った 。ベルリンの「ライヒ議会」の建物は完全にリニューアルされ、ドームもつくられた。政治の透明性を象徴するものとして、かつての重々しいものから、ガラスのカプセルのようなものに一変した。 夜10時までここにあがることができ、議場の様子を上から眺めることも可能である 。ドームからクリスタル状のものが議場に突き出しており、 透明な政治を求める民衆の目を暗示する

 首都移転の4 年前、1995年初夏のベルリンに、調査・取材のため短期間滞在した。その間、広島県中小企業家同友会の経営者十数名を様々な「名所」に案内した。 拙著『ベルリン・ヒロシマ通り』(中国新聞社) を読んだ同友会の関根武氏と国広昌伸氏の発案によるものである。 ナチス親衛隊(SS)・ゲシュタポ本部跡 ザクセンハウゼン強制収容所 「ベルリンの壁」関連の場所 旧東独秘密警察(シュタージ)本部 、そしてポツダム会談で名高いポツダム市へ。連日、早朝から深夜まで、ナチスと旧東独の「二つの過去を探る旅」に、彼らは真剣に付き合ってくれた。同友会のベルリン訪問のもう一つの目的は、「ヒロシマ通り」と「ヒロシマ橋」の視察、 そして改名を推進した市民グループとの交流だった 。これについて、広島の『中国新聞』1995年8月15~17日付文化欄に、「戦後50年のドイツ」として3回連載した。ちなみに、第1回は 「ベルリン『ヒロシマ通り』の5周年」 、第2回は「ポツダム『トルーマンの家』を訪ねて――原爆投下命令から50年」である。下記に、その連載の第3回を転載して、ドイツ連邦議会の議事堂が白く梱包された瞬間についてお伝えしよう。なお、1995年当時、ドイツは連邦軍をNATO域外に出動させることについて、まだ慎重な姿勢をとっていたことがわかる。この決定の後、雪崩をうつように、 海外軍事出動が急展開していく


  戦後50年のドイツ


 ――「梱包された帝国議会」とボスニア派兵決定――

 

  異様な光景であった。6月27日(火曜)夜10時すぎ。私はベルリンの旧帝国議会前にいた。巨大な議事堂が、ポリプロピレン製の布で完全に覆われている。

 「帝国議会前ロックコンサート」はすでに佳境に入っており、大音響のなか、踊り狂う若者たちのシルエットが白い壁面にうねる。「梱包された帝国議会」は、アメリカ在住の芸術家クリスト夫妻が私費10億円を投じた、 わずか2週間の一大パフォーマンスである 。連邦議会はこの計画に難色を示したが、結局292対223で承認した。7月7日には撤去され、議事堂の改築工事が始まる。その芸術的評価はともかくとして、歴史的意味あいは興味深い。

 帝国議会が建てられたのは1894年。第二帝政期である。その後、ヴァイマール共和制を経て、1933年2月、ナチスの自作自演劇により炎上する。「国家放火事件」である。これを契機に、ヒトラーの独裁体制が確立され、第二次世界大戦に突き進む。1945年5月、帝国議会はソ連軍によって完全に破壊される。1967年に再建されるが、時は東西分裂の時代。「帝国議会」(ライヒスターク)の名称のまま、主に歴史展示や式典に使用されてきた。だが、ドイツが統一し、ベルリン首都移転が決まり、ここはがぜん注目の的となった。2000年までに連邦議会議事堂として再登場する。「クリストの芸術」は、厳格なドイツ人が、厳粛な議会を改築する前に示した、 歴史的一回性のユーモアなのか

 6月30日(金曜)。そのベルリン移転を前にしたドイツ連邦議会は、連邦軍のボスニア「戦闘出動」を386対258で承認した。野党の社民党や「緑の党」からも49名の賛成者が出た。翌日の新聞各紙は、一面トップで、「ドイツ外交政策の転換」を報じた。旧ユーゴはナチス・ドイツが多くの市民を殺戮した歴史的経緯もあり、「決して連邦軍は派遣しない」というのが政府の方針だった。しかも、後方支援だけにとどまらず、トーネード戦闘爆撃機の派遣という「戦闘出動」である。同じトーネードでも、ECR(電子戦仕様)を派遣したところに苦渋の選択の跡が見受けられるものの、旧ユーゴの人々を殺傷する可能性は否定できない。連邦憲法裁判所が求める「議会の過半数の同意」という条件はクリアしたが、基本法(憲法)改正を伴わない「戦闘出動」には違憲の疑いが強く指摘されている。だが他方、国連常任理事国入りを控え、イギリスやフランスなどからの「外圧」も湾岸戦争時の比ではない。過去の歴史から軍事的抑制を貫いてきたドイツ。今、軍事力を行使する「普通の国」への転換を説く主張が勢いを増している。

議会の「戦闘出動」の決定を、「クリストの芸術」の前でくつろぐ人々はどう受け取ったのだろうか。ある世論調査によると、過去の歴史的経緯から、40%が連邦軍の旧ユーゴへの派遣一般に反対。地上軍の派遣となると、64%が反対し、さらにセルビア人攻撃にドイツ・トーネード機が参加することには66%が反対している(infas 1995年6月調査)。 野党や市民団体は、粘り強い非軍事的努力を呼びかけている。戦後50年が経過し、ドイツも転換点に立っている。21世紀に連邦議会議事堂が機能を始めるとき、この「戦闘出動」の決定はどう総括されるだろうか。

クリストが梱包に使った10万平方メートルの布は細かく裁断されて、観光客に配られた。私の手元にも、 銀色に光るそれが5平方センチだけある

(『中国新聞』1995年8月17日付文化欄掲載)

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