雑談(88)思索と検索――ネットからの自由? 2011年10月31日

10月21日は早大の創立記念日だった。大隈重信が東京専門学校を創設したのは1882年のこの日。以来、世間はともかく、早大だけは全学休講になってきた。わが学生時代には、休日になるのは「10.21 国際反戦デーだから」という連中もいたから、のどかなものだった。それが2011年の「その日」は授業をやったのである。大学の歴史上も、1972年に入学して以来40年近くになる私自身にとっても初体験である。文部科学省が半期15回の授業を要求しているというので、帳尻合わせでこういうことになった。「自主休講」してやろうとも思ったが、近年では休講にすると学生から文句が出るという。わが学生時代とは「大学文化」が変わったのだろう。

さて、創立記念日まで授業をやって、明日は11月。そろそろ後期(秋学期)の試験アンケートも届く。早いものである。この夏も前期(春学期)の1000枚を超える試験答案の採点をしたが、いつも脱力するのは、ワンパターンの答案が増大していることだろう。よく「金太郎飴みたい」と形容がされるが、それより深刻である。「金太郎飴」ならまだ手造りで、飴の組み方や切る角度で顔も微妙に違って見えるからだ

なぜ同じような答案やレポートが増えたのか。早大に着任したのが1996年。それから15年、同じ大学の同じ学部の同じ学年を「定点観測」してきた経験から言えば、ネットの普及と無関係ではない。これは大学教員なら誰しも感じていることだろう。なかでも検索エンジンの影響が大きいように思う。

私自身、5年半前に「検索エンジンの功罪」を書いた。マスコミ取材などで、相手が私の名前と自分の取材課題をクロス検索して、ゼミ学生が出しているレジュメか何かにヒットして、それで私を「その道の専門家」と勘違いして取材依頼のメールを出してくる。当時は安易で簡易な取材姿勢に辟易してこれを書いた。だから、3年前に藤原智美『検索バカ』(朝日新書、2008年)を読んだときは、同感することしきりだった。

藤原氏によれば、「検索の時代」と「空気を読む」という現象は一体となって進展している。検索で現代の空気を読む、空気を読むために検索する。こうした流れがいまも加速している。こう指摘して、検索が思考から嗜好まで代替していく現代において、私たちに「思考の自由」はあるのかと問う。この傾向は本書出版後3年たって、ますます広まっているように思う。

答案やレポートを読んでいても、「オッ」と唸るような力作や、担当教員に挑戦してくる猛者は本当に減った。平準化された情報をネットで迅速に入手して、当たり障りのない表現、差し障りのない文章にまとめる。実に鮮やかである。他方で、何でこんなに横並びの答案・レポートが並ぶのだろうかとさみしくもなる。

検索エンジンの便利で、しかしやっかいなところは、初めて訪れる相手(場所など)の情報を瞬時に知ることができることだろう。学生が「ググル」をやってくるので、実際に現場に言っても、「ネットで見たよりも小さいですね」といった感想になる。「驚き」と「発見」が相対的に減少する。

それと、何が上位にヒットするかということである。上位グループ(最初のページ)に並ぶかどうかで、商品の売り上げが格段に違ってくるという。その分野における「ランキング」として実質的に機能するわけだ。これは考えてみると怖いことである。グーグルは順位を決める基準を公開していない。ネット利用者は検索の上位にくるものが「メジャー」であり「重要」「価値ある」と無意識のうちに考える。逆に、検索エンジンに引っかからないような操作をすれば、ネット上では「存在しないもの」にすることも可能である。いわゆる「グーグル八分」である。玉井克哉氏(東大先端科学技術研究センター教授)の「検索サービス 独占の危険――ヤフーとグーグル」(『読売新聞』2010年12月28日付「論点」欄)は興味深かった。検索エンジンの問題性と同時に、それが独占されることの危うさについて鋭く指摘しており、共感できる。

検索で常に上位にくるのが「ウィキペディア」(Wikipedia)というネット上の「自由な百科全書」(free encyclopedia)である。これも便利なようでいて、実にやっかいな代物である。ある程度社会的に知られた人ならば、自分の名前を打ち込めば「ネット上の自分」の評価はすぐに出てくる。誰でも自由に書き込めるため、精度には大いに問題がある。間違いとは言わないまでも、一面的で単純化された評価も並ぶ。それが一人歩きしていく。ネット上の人物評価はこれでほぼ決まってしまう。

ネットでは、一度ネガティヴな評価をされると、それを引用したブログなどが次々にヒットして大変な騒ぎとなる。それを私も体験した。
   5月第1週に、新聞の地方版に出たベタ記事のおかげで、私に対する非難がツイッターやブログ上に吹き荒れた。どれもこれも最初の「つぶやき」を引用した同文のもので、それがみるみる膨らんでいく。ある時期、検索エンジンで私への非難ばかりが同じ言葉でズラーッと並んだときには背筋が寒くなった。

このような一過性の罵詈雑言はすぐに下火になるが、執拗につきまとうサイトもある。4年前に書いた新聞評論への批判は自由である。事実誤認があるならば、その指摘は指摘として受ける。だが、「偽造がお好き」という表現は、一方的に相手を貶めるだけのものだろう。検索エンジンはなぜかそういうものを上位にヒットさせ続けている。書かれた時期が年代的に新しいか古いかは関係ないようだ。4年前のものでも上位にやってくる。

まだある。「間違ったことを普及する」という言葉を検索すると、まっさきに私の名前が出てくる。私は「間違ったことを普及する」とんでもない奴ということになりかねない。
   批判の対象になったものとは、7年前の沖縄ゼミ合宿の際、当時のゼミ生が地元紙の記者に取材して聞き出したことを記した「ゼミ合宿報告書」である。そこに、沖縄の宗教・祭祀に関する間違いが含まれていた。それについて、その分野の専門の方がご自分のブログでかなり詳しく批判したのだが、タイトルがいけなかった。「水島朝穂教授は間違ったことを普及してもらっては困る」というタイトルだったからだ。それが上記のサイトと並んでずっと検索の上位の方に出てきた。指導教授としての責任はあるものの、これは学生が地元紙の記者に取材して書いたもので、記者の間違いを私の間違いと読者は思ってしまう。そこで、その方にメールを出して、これはゼミ学生が取材した地元紙の記者の言葉であること、にもかかわらず私自身が間違ったことの普及に貢献しているようにとれることを説明した。そのサイトでは誠実に対応していただき、周辺事情が詳しく加筆された。ただ、一度ネットに流れると、もとを削除しても、ずっとネット上にその言葉は棲息し続ける。「間違ったことを普及する」で検索すると、まっさきに私の名前が出てくることに違いはない。ご自身も「名誉棄損で訴えられても仕方ない(笑)」と書いておられるが、ネットの怖さは、書いた本人の意図とは別であったとしても、一端ネット上に載せた言葉が一人歩きしていくことだろう。

こうした検索エンジンから距離をとり、その位置づけを相対化して、そこでヒットしたものについては、例えば自分で図書館に行って、直接文献や新聞などにあたって調べてみるなど、ネットと距離をとる勉強法をすることが大事だろう。私は新聞を活用することを学生に薦めている。新聞の切り抜きをホチキスでとめて、自分で決めたテーマ毎に小分けしていくと、それが増えていくにつれて、自分の問題意識も醗酵してくる。検索エンジンで一過性の情報を仕入れるのと違い、自分の手や体を使って調べることで、思索も深まる。ネット時代は理論的な事柄まで、「思考」(thinking)ではなく、瞬間的な感覚で判断する「嗜好」(taste)に傾きがちである。その危うさから免れるためにも、ネットを活用しつつ、同時に、伝統的な手法も自分なりに駆使していく。それがネット時代に賢く生きる方法ではないか。「新聞をラジオで語る」という仕事を14年間続けてきた立場から言えば、日本は米国の道を歩まず、「紙」の新聞を残すべきである。

私はパソコンでは原稿を書かない(「個人のコンピューター(PC)からの自由?」参照)。原稿は、27年間親しんだ親指シフトキーボードのワープロ専用機3 台を各所に置いて、これを使って執筆し、コンバーターを使ってワードに変換してパソコン上に保存。メールで編集者などに送っている。この直言も15年間、このやり方で管理人に送信してアップしてもらってきた。780本を超えた「直言」も、パソコンで書いたものはない。「ガラパゴス」「絶滅危惧種」と言われようとも、これは死ぬまで続けていくつもりである。パソコンのデータをわざわざ昔のワープロ専用機に戻すサービスまでしてくれる「究極の専門店」が表参道にあるので安心である。そういう店が成り立つのも、私のような客がまだいるという証左である。最近、作家の椎名誠氏が私と同類であることを知った(「風まかせ赤マント」964回「ドタンバに来たワープロ継投」『週刊文春』2009年12月10日号、969回「吉兆ゾンビワープロ」同2010年1月21日号、1048回「旅する文学館のはじまり」同2011年9月8日号)。

さらにネットとの距離をとるため、自らはブログをやらず手書きを奨励し、ツィッターやスマートホンにも手を出すつもりはない。コピペ時代、ドイツでは志の低い「薄志論文」を政治家が書いて職を失っている。大学院生にはネットの使い方に注意を促し、学生にも「新三猿」(読まざる、書かざる、考えざる)にならないように言っている。

私なりの「ネットからの自由」のありようをこれからも追求していきたい。

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