雑談(81)新三猿――読まざる、書かざる、考えざる 2010年10月25日

回の「雑談」シリーズは、 エスカレーターの話で 、「足」を使わない若者たちについて書いた。そこで予告したように、今回は「手」も使わなくなってきたことについて述べたい。

 1999年に「iモード」が登場してから、「親指族」が誕生した。最近は、若者を中心に、メールや検索も「携帯」ですませる人が増えているという。8年前もごく稀にパソコンに携帯メールが届くことはあったが、 まだ少数だった 。「携帯」の進化とともに、利き手の親指だけで文章をつくる傾向が強まっている。

「親指」と言えば、私自身は、OASYSの「親指シフトキーボード」を、1985年以来愛用している。 いわゆる「親指シフター」である 。これを私は 墓場まで持っていくと公言している 。親指シフトは、両手10本の指を、親指を軸に全面的かつ効果的に活用するもので、日本語入力の速度と正確さにおいて、ローマ字入力よりも優れている( 試しにご覧ください )。

最近の若者のなかには、親指シフトはおろか、ローマ字入力も無関係という人が増え、キーボードの使えない「パソコン難民」も生まれているという。さらに、親指すら使わず、人指し指で簡単に操作できる何とかパッドなんぞが普及すれば、文章の作成は、定型文や予測機能などの発達でますます「自動化」されていくのだろう。これでは、文章を「書く」という概念には含まれないのではないか。

 「生まれた時、そこに『携帯』があった世代」が、中学・高校を経由して大学にも入学してきた。2010年は、その意味で劇的な変化の年になった。

まず、今年4月のこと、私のパソコンに、いきなり「携帯」からメールが連続して届くようになった。件名なし、呼びかけなし、いきなり用件に入る。「講義欠席しちゃったので、何をやったか教えてください」。これにはびっくりした。受け入れがたいものではあったが、1年生なのでメールの書き方について細かく指導した。件名をきちんと書き、本文ではまず相手の名前の呼びかけ、自分の紹介、「携帯から失礼します」という言葉を添えてから用件を書き、最後に自分の名前で結ぶ。件名なしメールが届くたびに、そうやって注意をしてきた。

そして夏休み前。他学部の大講義で「書評」レポートを任意で課したところ、何と携帯メールでレポートが届いたので仰天した。本人は携帯画面でけっこうな分量を「書いた」つもりだろうが、パソコン画面では10行にも満たない。これで書評とは。

 パソコンから届くメールも、今年は例年に比べ、文章が格段に短いのである。もちろん、長文の労作を送ってくる学生もけっこういる。だが、全体として文章が短くなってきていることは否めない。日頃、親指で文章を「書いている」ことの影響だろう。

 本を開き、ページを繰って「読む」のでなく、ネットで検索して、そこでセレクトされた本の情報(間違っていることも少なくない)をただ「眺めている」だけ。「読む」という行為がそこにない。だから、図書館で借りたり、書店で買ったりして、本のページをめくって熟読しつつ、メモを作り、原稿にしていくというプロセスを経なくとも、携帯レポートは可能なのだろう。明らかに文化が変わりつつある。

 「コピペ」(コピー・アンド・ペーストといって、ネット上の他人の文章を複写・切り貼りすること)や「模解」(ネット上に、私の担当科目の答案やレポートのサンプルも存在するらしい)が広まり、ワンパターンで同じ論旨の答案やレポートがやたら目立つようになった。サンプルに条文のミスがあったらしく、普通ならあり得ないような同じミスの答案が続々と出てきたのには脱力した。手書きレポートを課しても、ネットで「コピペ」したものを原稿用紙に書き移すだけというものもけっこうある。レポートは手書きしか受理しないという形で、少しは自分の手と言葉を使って書かせようと思ったのだが、 無駄だったようである 。「書く」という営みが急速に退化している。

  本も読まず、ものも書かず、最終的にはものを考えなくなると、受け身で従順で消極的で、なりゆきまかせの、お手軽、お気軽な人間が増殖していく。「読まざる、書かざる、考えざる」という「新三猿」である。そこへもってきて、書物や新聞がデジタル化されつつある。こうした傾向は、人々の思考にどのような影響を与えていくのだろうか。

劇作家の山崎正和氏は、「報道の電子化」についてこんなことを言っている(『読売新聞』2010年8月8日付「地球を読む」)。「ブログもツイッターも人の一回の発信量を短くし、短い断片的な文章になじんだ若者を生みだしている。どちらも粘り強い論理的な発言には不向きであり、刹那的で情緒的なやりとりを誘いやすい」。「社会は浅く薄い人間関係に溢れ、人の頭は型にはまった通念を繰り返すことになりかねない。それに加えて今度は活字媒体の電子化が始まるわけだが、これは発信の自由を増すと見せて、じつは無責任をもたらし、従来とは比較にならない深刻な危機を招くと考えられる」と。  「紙」を使った活字媒体の重要性については同感であり、「『紙』の権威は近代の知恵」という指摘には、なるほどと思った。

では、どうしたらよいか。直言で何度も書いてきているように、 ネットへの過度な依存から脱却して 、紙媒体の新聞とネットとを併用することが大切だろう。

 解剖学者の養老孟司氏は、新聞を「社会の空気を感じる世間の窓」と位置づけた上で、大要こう述べている(『読売新聞』2010年8月7日付「私の新聞活用法」)。

ネットでもニュースを知ることができるが、新聞は別格。「見出しや写真の大きさによって、ニュースの大小が一目で分かる。ネットは配信順に並んでいて、何が大きなニュースか分からない。ニュースの価値判断には新聞を使い、細かな調べ物などにネットを利用します」。でも「何でこんな記事を大きく扱うのか?」と自分の感覚との違いに戸惑うこともある。それが「社会の空気」だ、と思う。ある距離感を持って眺めるとともに、その背景を考える。「『うっかり記事をうのみにしたら怖い』と思うのは、終戦を体験した世代だから」。

 私は、授業で学生たちに、 ネットだけで情報を得ようとせず 、新聞をきちんと読むよう求めている。 新聞を読まない学生が増えている昨今 、相当強く言わないと彼らは実践しない。

そこで、まずは、新聞の魅力を説く。情報の手触り、その温度と湿度は、紙媒体の新聞の場合、誰もが容易に感じとることができる。これはネットにはないメリットである。また、大きな事件や事故の場合、一面トップから総合面、政治面、社会面へと、大きな見出しの付いた記事が並ぶことで、その事件・事故の広がりと奥行き、社会的位置関係が見えてくる。情報のベタ流しのネットとは違う。日々起きることがらについて、新聞とは違った自分の判断を磨くためにも、紙媒体の新聞との継続的な付き合いが大切なのである。

 さらに、新聞記事を「比べて」「手を使って」仕分けすることもすすめている。この新聞の「切り抜き」という作業は、デジタル時代には役に立たないように言われるが、 そんなことはない 。「手偏」に「比べる」は「批判」の「批」という字になる。 批判的精神 は、まずは新聞を「手で切って読む」ことから始まるのである。

このホームページを始めてまもなく14年になる。インターネットを活用する文系研究者としては「草分け」の方に属する私でさえ、ネットを使うようになってから、どうも落ちついた思考ができなくなってきたように感じている。何かを考えていても、思わずパソコンに手が動く。書物はたくさん読むのだが、本当の意味での熟読・精読・味読の機会がめっきり減ったような気がする。ネットを常時接続にしているので、メールが届くと「ファンファーレ」がなり、すぐにメールを読んでしまう。それに対応しているうちに、本を読んでいたときに思いついたアイデアを忘れてしまったこともある。私自身も、「ネット・オブセッション(強迫観念)」に取り込まれているのかもしれない。

そんな時、一冊の本に出会った。ニコラス・G ・カー=篠儀直子訳『ネット・バカ――インターネットがわたしたちの脳にしていること』(青土社、2010年)。著者はネットに反対しているかと思いきや、まったく逆で、ネットなしには出来なかった本とされている。著者の主張はこうだ。「インターネットがわれわれの思考様式に対して、確実に最大の長期的影響を与えるだろうパラドックス」とは、「絶え間ない注意散漫状態」である、と。これは実感としてよくわかる。

さらに著者はいう。「ネットの有する感覚刺激の不協和音は、意識的思考と無意識的思考の両方を短絡させ、深い思考、あるいは創造的思考を行うのをさまたげる」。ウェブページをサーチする時間が読書の時間を押しのけるつれ、携帯メールをやりとりする時間が、文章の構成を考える時間を締め出すにつれ、リンクの移動に使う時間が、静かに思索し熟考する時間を押し出すにつれ、「旧来の知的機能・知的活動を支えていた神経回路は弱体化し、崩壊を始める」。「気を散らされることなく深く読むとき、われわれの脳のなかでは豊かな結合が生じるのだが、これを生み出す能力が、オンラインでは大部分停止したままになる」と。

いちいち頷きながら読了した。検索エンジンにはまって、 安易で簡易な「情報」のゲットにうつつを抜かすことなく 、まずは自分をオフラインにおくところから、まともな思考が始まるのかもしれない。私個人について言えば、 ブログのような言葉の垂れ流しの手法はこれからもとらず 、週に一度のホームページ更新による発信にとどめる。また、140 字の「つぶやき」(ツイッター)の世界は、ニコラス・カーのいう「思考の断片化」の極致だから、決して近づかない。便利なものは利用しつつも、過剰な便利さからはあえて距離をとる。そうすれば、思考と思想の劣化を防ぐことができるかもしれない。

ネットを利用したさまざまな便利ツールに過度に依存した生活からの「リハビリ」が必要なように思う。読者の皆さんは、それぞれのネットとの関わりの程度に応じて、少しでもオフラインの時間を確保することをおすすめしたい。それだけでも、ネットと共存し、健全な関係を継続していくきっかけになるのではないかと思う。

 「親指」だけでなく、両手をすべて使うことと合わせて、「手」と「頭」が連動していることを知るべきだろう。「読まざる、書かざる、考えざる、そして行動せざる」からの脱却が求められている。

付記:冒頭の写真の「四猿」(見ざる、聞かざる、言わざる、せざる)は、 かつてライン河畔のフリーマーケットで入手したもの 。 この写真については、水島朝穂『18歳からはじめる憲法』(法律文化社、2010年)16章「思想・良心の自由」も参照。

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