3.11と総選挙――岩手県沿岸部再訪 2012年12月3日

よいよ明日は衆議院総選挙の公示である。私の頭のなかでは、1930年9月14日のドイツ国会(Reichstag)選挙と重なって見えるところがある。ヴェルサイユ条約による多額の賠償金、世界恐慌による不況、失業などによる生活危機への怒りと絶望。内閣が平均8カ月半で交代する政治の無策と混乱。あげくの果て、16もの政党が乱立する選挙が行われる。国民は政党や選挙そのものにうんざりし、議会制に対する拒否の感情すら生まれていた。「決められない政治」から「決められる政治」へ、「歓呼と喝采」による「決断と実行」を求める空気が人々のなかで高まっていた。ヴァイマル憲法が「屈服」(第1次大戦の敗戦)と「屈辱」(「匕首伝説」)の産物であるという主張も勢いを増し、排外主義や「内なる敵」への反感も煽られていった。

こうした状況のもとで行われた選挙の結果は、 2年前の1928年選挙で得票率2.6%の泡沫政党が、18.3%(107議席)で第2党に躍り出た。そして1年10カ月後の1932年7月選挙では37.8%(230議席)を獲得して第1党となった。その年11月の選挙ではわずかながら得票率を下げたものの、第1党の地位はキープした。そして、1933年1月、その党の党首が首相に任命された。同年11月に行われた選挙では、それまでにすべての政党が解散させられていたので、候補者を立てられたのはその党だけだった。得票率は92.2%(661全議席)に達した。わずか3年で、一人の指導者のもと、決断と実行の政治が始まった。念のために言っておくと、ドイツの1930年選挙を持ち出したのは、いまの日本の政党との類似性を云々するためではない。私が危惧しているのは、1930年代初頭のドイツ国民の心象風景が、不況、失業、「外憂」、短命内閣という日本の状況への人々の苛立ちや怒りと重なるからである。

東日本大震災からまもなく1年9カ月になろうとしている。満足に復旧もしていないところが随所にあるのに、感度の鈍い政治家たちは、「復興・復旧」と簡単に“・”でつなげてしまう。そういう政治家たちを激しく非難する橋下徹大阪市長自身、盛岡駅前の演説のなかで、「宮城県宮古市では…」とやってしまった(『毎日新聞』11月29日付)。「本質的な問題じゃない」と居直っているが(同日の記者会見)、それこそ「厚顔無知」の最たるものだろう。ちなみに、橋下氏は「現場を知らない国会議員が復興大臣をやっている」と述べたそうだが、現在の復興大臣は参議院岩手選挙区、副大臣は岩手3区(陸前高田、釜石等)選出である。いずれにせよ、被災地の人々にとっては、「復興、復興と簡単に言ってくれるな」という気持ちだろう。

先月19日、岩手弁護士会の主催する講演会で、「大震災と憲法」と題して講演した(弁護士会チラシ→ここから)。同様のテーマでは、震災の1週間後の2011年3月18日に広島弁護士会で、同年9月に新潟弁護士会、10月に日弁連、11月に秋田弁護士会、2012年3月に福島県司法書士会で講演したほか、市民団体等の主催の講演会を宮城県仙台市で行った。

 今回の岩手では、数日前に行われた衆議院解散を絡めつつ、東日本大震災との関連で憲法の課題について語った。復興予算の「流用」問題にも触れた。なお、その後、「予算が通ると、『はい、次』となって関心が薄れてしまう」ことへの反省の弁は、メディアのなかからも聞こえるようになった(「予算取材、反省します」『朝日新聞』2011年11月29日付「社説余滴」欄〔経済社説担当論説委員〕)。今後は、復興予算が被災地のために使われるよう、しっかりした監視をお願いしたいものだ。




 講演の翌日、岩手弁護士会の小笠原基也弁護士の案内で陸前高田市に向かった。まず、三陸沿岸道路の工事現場に立ち寄った。「復興道路」という表示がある。津波対策で、道路の位置はかなり高くなっている。
陸前高田市に入ると、津波の傷痕が顕著になる。震災の1カ月後にきた時は一面瓦礫に埋もれていた地域が、いま、広大な荒野となり、草も生えている。随所に瓦礫が残っており、10台以上の重機が動いていた。仮設のコンビニや店舗が限られたスペースで営業していた。



4階まで津波が襲い、多くの犠牲者を出した県立高田病院の建物は、解体工事が始まっていた。昨年8月、私が会長をしている早稲田大学フィルハーモニー管弦楽団のメンバーがボランティアとして陸前高田を訪れ、高田病院の仮設診療所で演奏会を行っている




市役所旧庁舎に着いた。向かいの市民会館と合わせて100人以上の職員・市民がここで亡くなっている。庁舎解体が決まり、数日前にお別れの式が行われた。献花台などがそのまま残っていた
市役所周辺には、JAやNTT、スーパーMAIYAの荒れ果てた建物がそのままの状態で残っている。公共機関の建物と異なり、民間のものはすぐには解体できないのだという。

 陸前高田市内で、小笠原弁護士の案内コースにない建物を偶然見つけた。その前を一端通りすぎたが、ユーターンしてもらった。間違いない。前日ホテルで読んだ『岩手日報』(11月19日付)の記事にあった「みんなの家」だ。冒頭の写真がそれである。近くの仮設住宅に住み、この家の管理をしている菅原みき子さんにコーヒーを御馳走になりながら、お話を伺った。

建築家・伊東豊雄氏と若手建築家が共同で設計したもので、この設計は今年8月、イタリアで開かれた第13回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展の国別参加部門で最高の「金獅子賞」を受賞したという。中心の柱は、津波の塩害で廃材となる杉の丸太19本が使われている。延べ床面積は約30平方メートル。1階は談話室になっていて、仮設住宅に住む人々がここに集って交流する。物見櫓の形をしているので、室内から階段をあがっていくと、津波で流された市街地が一望できた。陸前高田の名勝の松林が津波で壊滅し、最後の「一本松」も枯れてしまったいま、この「みんなの家」が陸前高田の一つの象徴になっていくだろう。

今年2月に宮城県石巻市に行ったときは、教員の方々に案内していただいたため、大川小学校をはじめ、被災した学校を中心にまわったが、今回は小笠原弁護士の活動との関係で、陸前高田市、釜石市、大槌町吉里吉里の仮設住宅をまわった。 3月に福島県郡山市にある仮設住宅を訪れたが、人里離れた山の麓にあり、とても寒かった。これに対して、私がまわった岩手の仮設住宅は比較的住宅エリアと接近していた。

まず、陸前高田市最大の避難所となった市立第1中学校に行った。校庭には仮設住宅がびっしり建てられている。その横には岩手医師会の高田診療所があり、その先には眼科や心療内科の仮設診療所もあった。野菜などを販売する車がきて住民が買い物をするなか、教室では授業が行われていた。

釜石市に入ると見慣れた光景が目の前に広がった。平田総合運動公園。昨年4月に来たときは、北海道の陸自第7師団後方支援連隊の活動拠点になっており公園内は自衛隊車両と隊員のテントで埋め尽くされていた。いまここは、平田第6仮設団地になっている。




案内の小笠原弁護士によれば、この仮設団地は大学の研究者が協力して、さまざまな工夫がなされているという。その例が、3つのゾーンの区分けである。入口の案内板を見ると、一般ゾーン、ケアゾーン、子育てゾーンに分かれている。ケアゾーンは、お年寄りのために、段差が出ないように作られ、スロープになっている。暖房にも配慮がなされ、また雨や雪が降っても隣近所で交流できるよう、向かい合う住宅の間には太陽を遮らない屋根がついている。通路も木目になっていて、歩くと心持ち温かい

子育てゾーンは、一般ゾーンやケアゾーンから離れ、もともと遊具のある遊び場の近くに建てられている。子どもの泣き声がクレームにならない配慮である。診療所もあり、また日常生活に必要なものを入手できる商店などが軒を連ねている。

町長と課長以下の幹部職員のほとんどが死亡した大槌町に入る。市街地を見渡せる高台に、「希望の灯り」があった。背後には、津波で壊滅した市街地が広がる。たくさんの犠牲者を出した町役場は解体目前である。続いて、同町の吉里吉里地区まで行った。瓦礫はほぼなくなったとはいえ、およそ復興にはほど遠い状態である。仮設住宅は津波の浸水区域にも建てられていた。海岸の堤防はざっくり崩れたままである。

ところで、『読売新聞』11月19日付一面トップ記事によると、被災3県が計画している災害公営住宅(復興住宅)2万3930戸のうち、仮設住宅が入居期限を迎える2014年末までに完成する見通しが立っているのは1万3693戸(57%)にとどまるという。現段階で完成した復興住宅は、福島県相馬市の24戸だけ。工事に着手したのは848戸(4%)、用地が取得できたのは5204戸(22%)である。すべてが後手にまわり、しかも遅い。

 被災地をまわりながら、総選挙に向けて、「大震災からの復興」という争点が見えにくくなっていることが気になった。「脱・ノー・卒・続…原発」という言葉ばかりが踊って、原発事故によって悲惨な状況にある福島をどうするのかという問題が前面に出てこない。3.11後の初の総選挙にもかかわらず、である。

 最後に一言。くれぐれも「決められない政治からの脱却」だの、「決められる政治」といった空疎な言葉に踊らされることなく、その党が掲げる公約や政策をしっかり読んで、「決める」「実行する」といった言葉の目的を見抜いて判断したいものである。

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