「アベコベーション」の日本――とりあえず憲法96条?  2013年2月25日

「アベノミクス」「安倍相場」「安倍バブル」「安倍カラー」「アベデュケーション」…。内閣発足から2カ月。本来ならば、2007年9月12日の政権投げ出しの一事をもって、政治の舞台から退場すべき人物が、大手を振って復活している。しかも、首相個人の名前を冠した言葉がこれほどまで飛び交うのも珍しい。指導者の思い入れや思い込み、思い過ごしや思い違いが、壮大なる勘違いの大河となって、国や社会にダメージを与えていく。歴史をひもとけばよくある話である。これらの言葉は、メディアの浮ついた報道のなか、すでに一人歩きしている。

 例えば、「アベノミクス」。年末の「流行語大賞」発表までもつかどうか怪しいが、わずかな期間で、この言葉は括弧抜きでメディアに定着してしまった。G20(主要20カ国・地域財務相・中央銀行総裁会議)でも関心が集まった、と各紙2月17日付が取り上げた。『読売新聞』は「アベノミクス一定評価」という見出しまで打った。

 デフレ脱却のため、金融緩和政策(物価上昇率2%)、財政出動(総額20兆円の公共事業)、成長戦略(中身は「産業競争力会議」に丸投げ)の「三つの矢」を基本方針とする。日銀に対して、内閣の意向に従うことを迫り、総裁を事実上退陣に追い込んだ。雇用も改善せず、賃金もあがらないのに、インフレ、物価高、そして増税。これで国民生活がよくなるという発想が、そもそもアベコベである。だが、株価上昇と円安で、安倍晋三首相はすこぶる機嫌がいい。3カ月前、「輪転機をぐるぐる回して、無制限にお札を刷る」、公共事業の財源とする「建設国債」については「日銀に全部買ってもらう」とはっきり述べていた。「私の話で円は安くなり、株価は上がり続けている」と、「ひるむ様子はない」という勢いだった(『朝日新聞』2012年11月20日)。

 たまたま新潟県の「朝日柳壇」に、次の一句を見つけた。「借金を諭吉に背負わす輪転機」(新発田市・星正)。これに対する選者(宮村桂路)の評。「この輪転機は印刷局の内部にあるものです。印刷された福沢諭吉の紙切れを新聞の号外のようにまき散らしても国の膨大な借金が消える訳でもないのです。赤字国債を次の世代に押しつけない対策を考えないと、諭吉もあの世でうかばれないでしょう」(『朝日』2013年1月29日付新潟全県版)。一国の首相が、金融政策を語るとき、「輪転機をぐるぐる回す」という即物的な表現を使った例が他にあるだろうか。

 首相が「円安にする」と語れば、各国は通貨切り下げ競争に連動する「円安誘導策」だとして反発する。2月18日の参議院予算委員会では、意図してかどうかは不明だが、「外債を買う」と軽く口にしただけで、市場はすぐさま反応した。ご本人は「外債」という一言の影響についてあまり自覚はないようだったが、外債購入は日本が為替介入を行うというメッセージになりかねない。各国の批判を避けるため、麻生太郎財務相はただちにこれを否定し、「火消しに躍起」(『朝日』2月20日付経済欄の表現)だった。いま、この国の経済・財政は、「アベノリスク」(脇田栄一氏植草一秀氏の指摘)の渦中にある。詳しくはこれらの論稿に譲る。

 さて、経済や金融、財政だけでなく、教育の分野でも混乱が始まっている。本来、色(カラー)を付けてはいけない教育の世界に、無理やり色を付ける「安倍カラー」。教育再生実行会議の委員の一人は、1月24日の初会合の日に「アベデュケーション」なる言葉を掲げて、首相を持ち上げた(『朝日』1月25日付)。続く第2 回会合(2 月15日)では、「道徳の教科化」が決まった。座長は「反対意見はなかった」と述べたと報道されているが、座長自身の意見はどうなのだろうか。通常は、教科になれば評価をしなければならない。文科省は、評価はしないというのだが。この日、安倍首相は、「ご議論を踏まえ、スピード感を持って…内閣を挙げて取り組んでいきたい」と挨拶した(官邸ホームページ、2月15日)。

 安倍氏は「スピード感」という言葉を頻用するが、国の未来に通ずる教育という道路を、安倍車は速度オーバーで驀進している。この安倍式「教育改革」は「後ろ向き」だと批判するのは、本田由紀氏(東大教授、教育社会学)である。「安倍首相が『取り戻し』たいのは、彼の思い描く『美しい国』。国民が皆、私の思うような人間になってくれればそうなるはずだ、という思い込みが、彼を教育再生へと駆り立てているように見えます」と指摘する。「道徳を名目に国家が人の心の中に踏み込もうとしている。しかし『このような人物であれ』と画一的な人物像を押しつけるのは教育ではありません。子供の多様性や主体性を可能な限り尊重すべきです。新しいアイデアや意外な発想を生かしてこそ、社会の活力の源になるはずなのに」と。同感である。学校教育のみならず、家庭教育にまで国家が踏み込んでくる。「親学」を説き、子守歌や母乳による育児を奨励する。「親学推進議員連盟」の会長は安倍首相である(以上、『毎日新聞』2月12日付夕刊2 面「特集ワイド」欄参照)。

 事物の本質に反した、逆転の政策ばかり。まったくアベコベのことをやっている。安倍内閣が行う「アベコベ」の政策と施策、それによって引き起こされる諸結果や状態を総称して、私は「アベコベーション」と呼ぶ。

 この「アベコベーション」は、憲法改正をめぐる動きにおいて、とりわけ顕著である。安倍氏は総選挙翌日の記者会見で、「憲法改正に向け、発議要件を定めた96条の改正を先行させる考えを示した」(『朝日』2012年12月18日付1 面トップ)。 1月30日の衆院本会議では、憲法改正について初言及。「まずは多くの党派が主張している96条の改正に取り組む」と述べた。「現職の首相が国会答弁で憲法改正に明言するのは異例」と記者は書いた(『毎日』2013年1月31日付)。

 前述の教育再生実行会議第2回会合の3時間前、安倍首相は党本部で、憲法改正推進本部の会合に出席。「いよいよ憲法だ」とハッパをかけた。個別の政策課題を議論する党の会合に首相が出席するのは異例というから、いかに安倍首相が憲法改正にまっしぐらかが分かる。その際、首相は北朝鮮の拉致問題に言及しつつ、「こういう憲法でなければ、横田めぐみさんを守れたかもしれない」「日本の戦後体制、憲法は13歳の少女の人生を守れなかった」と語り、憲法改正の必要性を訴えた(『朝日』『読売』2 月16日付)。

 また、1977年、旧西ドイツのルフトハンザ機が赤軍派にハイジャックされた事件にも触れながら、「西ドイツは実行犯を射殺して人質を奪還し、世界から喝采された。西ドイツは何度も憲法改正をしてきたからできた」、「(日本は)憲法に抵触するために警察や自衛隊による救出作戦ができず、テロリストに屈したと世界から非難された」と述べたという(『読売』同)。何と荒っぽい議論だろうか。モガジシオ空港の救出作戦は連邦軍ではなく、連邦国境警備隊(現在は連邦警察(Bundespolizei) )の特殊部隊(GSG9)が行ったもので、憲法改正とは何も関係ない。ハイジャック機を撃墜できる法律に憲法違反の判決も出ている国である。ドイツの議論の理解もアベコベである。

 首相はさらに、「自衛隊」の名称についても、「海外では《selfish 》(わがままな)と評されることもある」として、「自衛隊に誇りを与えるため、改正が必要だ」と述べ(『朝日』同)、「まず96条からやっていこう」と、憲法改正の発議要件の緩和を最優先する考えを示したという(『毎日』同)。これもひどい論理のすりかえである。「専守防衛」はわがままなのだろうか。

 9年前、朝日新聞社の『論座』で、自民党幹事長だった安倍氏の改憲論を批判したことがある(「理念なき改憲論より高次の現実主義を」『論座』2004年3月号)。当時もエモーショナルな理由づけが目立ったが、最近の安倍氏は、より「進化」したように思われる。それは、「何でも日本国憲法の所為(せい)にする」という発想である。この点では、日本維新の会の石原慎太郎氏に近づいているのかもしれない。「国政の停滞は憲法に原因があると思うか、思わないか」という倒錯した質問を行った昨年9月の『毎日新聞』世論調査を思い出す。「景気が悪いのは憲法のせいか」、「彼女にふられたのも憲法のせいか」、「みんな私〔憲法〕が悪いのよ〜♪」なのか。

何でも憲法のせいにする議論や、現実に合わせて憲法を変えろという議論については、これまでも何度か述べてきたので立ち入らない。ここでは、「とりあえず96条から」という発想の安易さを問題にしたい。

スポーツ競技の団体でも、規約や会則のなかに、必ず改正手続規定を置いている。自分のチームが試合で勝ちやすくするため、ルールの変更を狙って、まずはルールの改正規定にある「3分の2」を「過半数」にしましょう、と選手が堂々と言ったらブーイングだろう。そういう恥ずかしいことを正面から方針に掲げる感覚がわからない。

 ビール専門店(例えば、銀座のZugspitze や梅田のDolphins)で、「とりあえずビール!」と注文したら失礼にあたるだろう。「とりあえず」という言葉は、「さしあたり」「当面は」「真打ち登場までの間の前座」等々、本格的なものが後に控えていることを前提とした言葉である。明らかに「前座」(96条)は軽く見られている。9条改正の前に、「細かな手続の話」だから合意を得やすいし、一回やれば改憲慣れして、9条改正も容易になる。3分の2か、過半数かという「数字の問題」は、一般の人々にはよくわからないだろう。そんな本音が、問わず語りに表に出てしまっている。憲法改正手続規定だから、9条のような重い議論がいらない、と考えたら大間違いである。

そもそも改正手続規定とは何か。それは憲法制定した権力が制度化されて、憲法典の安定性を確保するものである。だから、どこの国の憲法も改正手続が法律の場合よりも「加重」(重く)してあるのである。

 安倍首相は、改正手続規定の改正を政治目標とし、かつ自己目的化している。これは憲法の存在意義、引いては立憲主義そのものを軽視する発想ではないか。「改正手続規定は、憲法制定権力が憲法典成立以後法的に行為しうる唯一の途筋であり行為準則であって、改正手続の実質に触れる改正はできない」とされる(佐藤幸治『憲法』青林書院)。「実質に触れる」例として国民投票の廃止を指摘するが、筆者は「総議員の3分の2」を「過半数」にすることも実質に触れると考える。単なる数字の問題ではない。憲法には「3分の2」という文言が合計5箇所使われているが、議員資格喪失や除名、秘密会、参院否決法案の再可決の場合はいずれも「出席議員の3分の2」であって、「総議員の3分の2」は96条だけである。

「とりあえず96条」というのは、権力者として、あけすけに本音を述べたものと言えよう。特に「憲法96条改正を目指す議員連盟」というのは最も恥ずかしい存在である。もっとも、この間、連盟の役員が閣僚や党幹部になって「休眠」状態に入ったという(『産経新聞』2 月19日付)。憲法96条の改正はもはや議員連盟のレヴェルの問題ではなくなり、内閣の主要テーマになったということだろう。

憲法というのは、人々の記憶と記録が憲法規範という形に記述された文書である。戦争による悲劇・惨劇・衝撃の記憶は、戦争に導いていった歴史的なドキュメント(記録)の集積のなかで解明され、反省され、二度と繰り返さないという決意に結実して、それが実定憲法典のなかに記述されたもの。それが憲法9条である。同様に、令状なしの逮捕、弁護人抜きの非公開裁判、拷問、そうした戦前の警察権力の横暴と専横の恐怖の記憶、それを記録して、憲法典の条文として記述されたのが、憲法31条から40条までの条文である。これは人権条項の3分の1を占める。なぜ、これほどまでの多くの条文を使い、周到なる刑事手続上の権利を憲法典に記述したのか。これこそ、対内的権力を憲法に拘束し、制限し、統制するためであった。対外的には9条の徹底した平和主義により、対内的には人権条項の3分の1も使った警察権力の統制によって、憲法は権力の暴走の記憶と記録を記述したのである。そうした内容の重さゆえに、またそれゆえにこそ、憲法の改正手続は「重く」されているのである。一見形式的な手続規定だけのように見える96条の実質的な意味がそこにある。

 2月14日、日本維新の会国会議員団幹事長とみんなの党幹事長が国会内で会談し、今国会に「憲法96条改正案」を共同提案することで一致したという(『朝日』2 月15日付)。これらの党の「とりあえず96条」の議論も安倍氏と似たりよったりである。96条改正に哲学や思想があるとも思えない。しかし、これらの党と安倍自民党が衆議院では3分の2を簡単に超える。とりあえず、「とりあえず96条」という議論に簡単に乗らないところから、議論を重く始めることが肝要だろう。

 ちょうど8年前、フジテレビの「ノンフィックス」の「憲法96条―国民的憲法合宿」という番組に出演した。普通の6人の市民が軽井沢で合宿して、憲法研究者二人のレクチャーを受けたのち、6人だけで議論する。彼らは、全員一致の結論が出るまで家には帰れない。それがルールである。護憲3対改憲3で平行線が続くが、合宿2日目にとうとう全員一致の結論に達する。さて、どういう結論か。これは私も番組が放送されて初めて知って驚いたほとだ。この年のATP賞(全日本テレビ番組製作社連盟)を受賞した作品である。いま、この番組を再放送して多くの方にご覧いただく必要性は当時よりも増しているように思う。タイトルが「憲法96条」というのも、制作者、特に長嶋甲兵プロデューサーに先見の明があったというべきだろう。

 なお、昨今の憲法改正問題について、『世界』2013年3月号の特集「安倍『改憲政権』を問う」を参照されたい。

(2013年2月19日稿)


《付記》 2月22日、安倍首相は日米首脳会談を行い、TPP共同声明を発表。TPPへの参加の方向に舵をきった。TPPについては下記の直言を参照ください。
直言2011年1月24日 TPPと「食の安全保障」
直言2011年11月21日 TPPと日米安保条約第2条

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