「復興支援活動」の実態が見えてきた 2009年10月12日

2006年3月。東京メトロ高田馬場駅構内を歩いていて、一枚のポスターの前で足がとまった。ミュージカル女優の新妻聖子さんが微笑んでボール(地球?)を抱えている。「もっと知ってほしい。自衛隊のイラク復興支援活動」の見出し。ボールのなかに、自衛隊の給水活動や空輸活動などのカラー写真が並ぶ。まるでボランティア活動の宣伝のようなレイアウトである。「122カ所に及ぶ、学校など公共施設の復旧・整備。約1100人の雇用創出(1日あたり最大)。総給水量は53,500トン以上。サマーワ住民の約7割が活動の継続を希望。医療器材などの関連物資を空輸。様々な医療支援」ときて、「日本らしさを活かした誠実な活動と持続力が、イラク復興のために大きな成果を上げています。防衛庁」と結ぶ。女優の笑顔と数字などからは、イラク派遣は実にすばらしいことのようにも思えてくる。この女優は、関連サイトに自筆メッセージを寄せ、「日本人として嬉しく思います」と書いている。なお、ポスターの掲示期間は短く、次に通ったときには撤去されていた

「復興支援」。響きこそいいが、忘れてはならないことがある。イラクに「復興」を必要とする悲惨な状況を作ったのは誰なのか、である。

フセイン大統領の独裁政権は、北部のクルド人に残虐な仕打ちをしてきた。「大量破壊兵器」保有の「疑惑」も存在した。1991年湾岸戦争で多くの犠牲者を出し、国民生活はどん底だった。経済制裁で薬品や食料が不足し、多くの子どもたちが死んでいった。その疲弊したイラクは、歴史と伝統のある中東有数の国であり、国連創設時の51カ国の一つである。そのイラクという国家を、安保理決議もなく、自衛権行使の要件もクリアしないのに、最新兵器の展示会のような過剰な武力の行使によって崩壊させ、悲惨な無秩序状態を作りだした張本人は誰か「侵略の定義」(1974年国連総会決議3314)に当てはまることを公然と行ったのは、ほかならぬ米国ブッシュ政権であった

いまでも鮮明に覚えている。2003年2月14日(金)の国連安保理で、米国が世界から孤立した姿を。日本の国連大使は米国を弁護したが、「もっと査察を!」(武力行使反対)の声は国際社会の動かぬ大勢だった。フランスのドビルバン外相(当時)は、「(大量破壊兵器の)査察こそ、効果的かつ平和的にイラクの武装解除を可能にする」と演説。結びで、米国に恩を感ずる「古いヨーロッパ」という言葉を使うと、議場に拍手が起きた。議長役のフィッシャー独外相(当時)は、「安保理では拍手はいけません。今日がバレンタインデーだからといってもです」と、満面に笑みを浮かべて議場を静めた。この瞬間、国連の安全保障理事会の場で、イラクに対する米英軍の武力行使に正当性も合法性もないことが明確になった。翌15日(土曜)、米国や欧州各国、世界中で1000万人が街頭に出て、武力行使反対を訴えたのである

だが、その4日後、ブッシュ大統領(当時)は、「ゲームは終わった」と軽口をたたいて、武力行使の道を選択した。やがて、イラクには「大量破壊兵器」が存在していなかったことについて、米国政府自身も認めざるを得なくなった。北ベトナム爆撃の口実となった「トンキン湾事件」(1964年8月)と並ぶ「稀代の大嘘」となった

その後、総選挙が行われ、米国の後押しする臨時政府ができたものの、しょせんは「傀儡政権」。武力抵抗闘争がおさまる気配はない。外国の武装勢力や国際テロ組織もイラクに入り、民衆のなかに充満する怨嗟と怒りを養分として、活動の場を広げている。占領に抵抗する人々から見れば、協力者はすべて「鬼畜米英の手先」とうつる。当然、攻撃対象となる

イラク特措法で派遣された陸自「復興支援群」は、宿営地サマーワで、「自らを衛る隊」に徹して、2年半、死傷者も出さずに撤収した。給水活動にしても、1リットルに換算したら「世界一高い水」になるだろう。現地の人々にとって、それなりに「役立った」ということをもって、自衛隊派遣の本質的問題が解消するわけではない。小泉首相(当時)が選択した、自衛隊派遣というブッシュ支持の方策は、イラクに対する侵略戦争と違法な占領統治への加担行為として評価されざるを得ない。「自衛隊の国際政治的利用」を外交カードとしたい政治家たちや、これに便乗して「普通の軍隊」を目指す高級幹部。イラクで実際に活動したのは、饒舌な政治家や高級幹部たちではなく、自衛隊を「職場」として選択し、与えられた任務を誠実に果たす寡黙な陸曹クラスの隊員たちであった

ここに、10次にわたるイラク復興支援群のなかの、ある部隊の隊員がイラクに持参した『隊員必携(陸上幕僚監部)〔第3版〕』がある。持ち物について、肉筆の書き込みもある生々しいものだ。現地情勢、国際法等、突発事案対処、通信、兵站、衛生、英語、現地語、生存自活の大項目に、カラー写真をふんだんに使った詳細な記述がある。「不測事態時の行動原則」は「近づかない」が大原則。「自爆テロ」には『近づかない』『射つ』『離れる』、「デモ・暴動」には『頼む』『間を取る』『入れない(宿営地)』『離れる(宿営地外)』などが続く。

注目されるのは、「武器使用後の説明要領の例」。「相手の大腿部を狙い単発3発射撃した」という記述例もある。武器使用の際の号令・動作は、相手に命中させる射撃の場合には「直接、射て」とある。1992年のPKO等協力法制定過程で当時の政府は、「武力行使」と「武器使用」を区別し、個々の隊員の判断による射撃を原則とし、「たまたま隊員の判断を上官が束ねる」という傑作答弁を生み出した(池田防衛庁長官)。その後、PKO等協力法24条の武器使用が、上官命令によるというふうに改正したのは、1998年の自・自連立の際、自由党党首小沢一郎氏の力説によるものである。上官命令射撃を実際の場面でどのように徹底しているかはこれまで見えなかったが、このマニュアルでは、相手に命中させる射撃の号令は「直接、射て」となっている。他の活動でも同様ということだろう。

さて、別刷の『サマーワ配置図』はもっとリアルである。「第1ゲート」図を見ると、MG(機関銃)陣地などがあり、サマーワの宿営地は「引きこもる」ための要塞と化していることがわかる。「警報発令区分」を見ると、迫撃砲の攻撃を受けた場合の警報(クラクション「ブーーブーー」)や襲撃警報(クラクション「ブブブブブブ」)などが列挙されている。「警衛隊」の編成基準を見ると、巡察班、阻止班などと並んで、「デモ対処」という部門もある。現地の人々と治安出動的発想で向き合う姿勢が見てとれる。平和的な復興支援とはかなり距離がある。イラクには、初めて110ミリ個人携帯対戦車榴弾「パンツァーファウスト3」をもっていったから、これを使う事態が起きなかったのは「不幸中の幸い」に近いことというしかない。

2006年に陸自部隊が撤退(撤収)した後も、空自の活動は続いた。2006年6月20日、額賀防衛庁長官(当時)は、イラク特措法に基づく実施要項を変更。空自イラク復興支援派遣輸送航空隊(隊司令・西野厚一佐以下200人)の活動実施区域として、新たにバクダッドの多国籍軍司令部施設を加え、部隊を改編(10人増員)した。これで、バクダッド飛行場などへの米軍の人員・物資輸送を行うわけだ。バクダッドは「非戦闘地域」とは言えない。サマーワに籠もる「象徴」的活動を実施した陸自「撤収」の影に隠れた、米軍協力の「実質」拡大にほかならない。

元郵政大臣、元防衛政務次官の箕輪登氏は、2004年1月、自衛隊イラク派遣差し止めの訴訟を札幌地裁に起こした。「原告は、政権党の国会議員としてわが国の防衛政策、外交政策に深く関与してきた。…今回のイラクへの派兵は、かような原告の立場からしても、明らかに憲法第9条、自衛隊法に違反する。…(テロなどにより)原告自らの生命・身体、自由、幸福追求への侵害の危険をもたらすと同時に、他国の人々に対するそれらの侵害に加担させられるのであるから、これにより受ける精神的苦痛は、人間として平和的に生きたいと考えている原告にとって耐え難いものである」と。2006年5月14日に箕輪氏は死去したが、その言葉はいまも重く響く

2008年4月17日、その空自の輸送活動に対して、憲法9条1項の「武力行使」に該当するという画期的判決が名古屋高等裁判所で出された。判決は、バグダッド空港を「戦闘地域」と認定し、空自の輸送活動を違法なものと断定した。また、武装兵員の輸送という行為は、武力行使との密着度が高く、自ら武力行使を行ったと同等評価される部分は、憲法9条1項違反とされた。

市民団体は情報公開法に基づき、この空自の活動の資料、特に「週間空輸実績」という文書の請求をしてきたが、防衛省は一貫して「黒塗り」で応えてきた。『東京新聞』10月6日付が一面トップで伝えるように、防衛省は先週、2006年7月から2008年12月までの124週分についての空輸活動記録を公開した。運航日数は467日だが、そのうち218日、47%がバグダッド空輸であった。空輸した人数は26384人。米軍は17650人。67%を占める。他国軍を含めると、71%が兵士だった。国連職員の輸送は2564人で、1割にとどまった。つまり、空輸活動とは、米軍事要員の輸送だったわけである。特に終盤は、首都バグダッドへの定期便は、「米国のための空輸活動」に徹していた。兵士が持ち込んだ小銃・拳銃は5395丁。米陸軍40人が80丁の小銃・拳銃を持って搭乗したこともある。

このイラク空輸活動資料の全面開示は当然のことで、これまでの政府・防衛省がひどすぎただけである。新政権の北沢俊美防衛大臣は、「国民の知る権利を阻害する政治は本来の姿ではない。一定の軍事機密があることは承知しているが、政治の意思として国民にきちんと情報を提供するよう官僚に指示すれば、明らかにできる。情報の隠ぺいは日本のためにも省庁のためにもならない。国民に真実が明らかになるプラスの方が、日本の政治としてははるかに大きい」と語っている(『東京新聞』10月6日付)。

自民党政権は、この活動が人道復興支援のための輸送であると一貫して強調してきたが、その実態は米軍人の輸送という戦闘支援活動であったことが明らかとなった。当時、野党の追及に対して、政府は輸送した物資と人数の総量を示しただけで、詳細は『安全に支障がある』として公表を拒否してきた。今回、これが明らかになったわけで、「復興支援活動」のまやかしが明らかになったことは重要である。政権交代を実感させる瞬間ではある。

今後、「国民の知る権利」の観点から、これまで非開示にしてきた「秘密」の類の公開を求めたいと思う。とりわけ、1985年8月12日の日本航空123便墜落事件の真相をはっきりすべきである。圧力隔壁の破損などではないことは、大方の関係者にはわかっていることだろう。権力が関わった、この巨大な「国家秘密」の闇が、来年の「事件」から25周年を前に明らかにされる時が近づいている。

付記:本稿の冒頭から中盤にかけての部分は、「水島朝穂の同時代を診る」連載21回「忘れてはならないこと——『撤収』の陰で」国公労『調査時報』524号(2006年8月号)2~3頁を使用した。

 

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