これは「沖縄問題」なのだろうか――日本国憲法施行63周年にして 2010年5月3日

日は日本国憲法施行63周年、「憲法記念日」である。午後から静岡市で講演する。例年この日のために、早くから講演の依頼が来る。各地から熱心な依頼を頂戴したが、一番に届いたのが静岡だった。お断りした地域の皆様にはお詫びします。 なお、 2009年の憲法記念日前後は岡山・福山 2008年は高知 2007年は札幌・水戸 で講演した。安倍晋三、福田康夫、麻生太郎。年ごとに首相が違った。今回は、政権交代後、初の憲法記念日である。それまでは憲法改正問題が中心だったが、今年のメインは「沖縄問題」である。「直言」の方も、このところ普天間飛行場「移設」問題が続いている。 もっとも、米軍基地問題は決して「沖縄問題」ではない。 「日本という主権国家における、外国軍隊駐留放置問題」と言うべきである。

あまり知られていないが、「憲法施行63周年」という言い方は、 沖縄では当然にはできない。沖縄にとって日本国憲法は、法的にはさまざまな議論があるものの(「潜在主権論」など)、実質的には「施行38年」と受け取られている。63年と38年の間に横たわる25年(4 分の1 世紀)という途方もない時間と苦難への眼差しを忘れてはならないだろう。なお、12年前、仲地博氏(琉球大学名誉教授、沖縄大学教授)との共編で、 『オキナワと憲法――問い続けるもの』(法律文化社) を出版したので、 この機会に参照されたい。

那覇市の中心、国際通り入口を左に、県庁を右手に見ながらしばらく歩くと、県警本部手前に立法院跡の碑(上記写真)がある。 1952年、米国の暫定統治下、米国民政府令68号「琉球政府章典」によって設置された琉球政府の立法機関である。1972年の復帰により沖縄県議会となるまで、20年間活動した。 沖縄公文書館ホームページの検索画面で、 **を削除して「日本復帰」と打ち込むと、1952年4月29日の「日本復帰について」という決議がヒットする。「祖国復帰」と打ち込むと、1954年4月30日「即時無条件祖国復帰に関する要請決議案」が出てくる。 いずれも合衆国大統領などにあて、日本復帰を求めた決議である。後者には、 「祖国政府及び米国政府の真摯にして好意ある措置が、奄美大島の先例よって早急に実現することを強く期待し、且つ要望する」とある。

1952年「4.28」にサンフランシスコ講和条約が発効。 その3条により沖縄と南西諸島は日本から切り離され、米国の暫定統治下に置かれた。奄美群島は、1953年12月25日に日本復帰を果たすが、沖縄への統治は続く。 公文書館ホームページを見ると、立法院は折にふれて日本復帰決議を行っていることがわかる。 だが、日米両国政府の対応は冷たかった。「祖国」と米国の「好意」を信じた沖縄の人々の期待は裏切られ続けた。

先週水曜、4月28日付の『琉球新報』社説のタイトルは、 「4.28沖縄デー 『切り捨て』の発想改めよ」である。ちなみに、私が学生の頃は、「4.28」と言えば学内は「沖縄デー」の集会やデモで騒然としていた。「沖縄奪還」とか 「沖縄を返せ」といった立て看板がキャンパスに林立し、 各セクト(もはや死語?)のアジ演説(これも死語?)が交差した。特に私が大学に入った1972年の「4.28」は、「5.15」(沖縄返還の日)を控え、危機感と緊張感に包まれていた。

上記社説は、この「屈辱の日」を忘れるなという激しいトーンで始まり、 沖縄の戦後史を振り返りながら、こう結ぶ。 「基地を辺境の地域に押し付けることで日米安全保障体制の維持を図り、安寧を保つという考え方は、本土防衛のために沖縄を『捨て石』にした発想と大差ない。 国会論戦などを見ていると、普天間移設は完全に政争の具と化している。政治家は過度の米軍基地が集中するに至った沖縄の歴史を学び、『切り捨て』『押し付け』の構図を改めてもらいたい」と。 「県民大会」 から数日、普天間「移設」に関する政府の「最終案」が見えてきた段階なので、怒りのこもった筆致である。

各紙報道によれば、政府「最終案」のポイントは3点。 (1)徳之島空港の2000メートル滑走路を利用し、周辺を一部埋め立てて、ヘリコプターの格納庫や兵舎を建設し、普天間の部隊約2500人のうちの1000人を移すか、訓練を移転する。 (2)2006年の「日米合意」による辺野古沖の現行計画を基本に、異なる工法に修正する。具体的には、辺野古沿岸部を埋め立てる代わりに、海底に杭を打つ桟橋方式で1800メートルの滑走路を建設する。 (3)米軍嘉手納基地で行われている発着訓練を鹿児島県内の無人島や、本土の自衛隊基地に分散移転させる(『読売新聞』4月28日付夕刊、『朝日新聞』29日付)。

   1月(名護市長選)、3月末、5月末とさんざん待たせたあげく、首相「腹案」の中身がこれだとするならば、期待をもたせた分、沖縄の失望や怒りは大きいだろう。 まだ鳩山首相自身の口からこの方針が明確にされたわけではないので、あえて断定は避けておくが、「与党関係者が米政府関係者に『政府案』として示した滑走路計画案」(『読売』4月30日夕刊)という形で、「政府案」として報道されているのも事実である。 首相自身は、「『ゼロベース』であり、まだ一つの案の段階である」と言うのかもしれないが、首相がこれに否定的態度をとらない以上、「辺野古修正案」に軸足を移したととられても仕方ないだろう。 自民党政権下のように、米国の意向を忖度して、沖縄に向けて時には強引に、時には札びらで頬をたたくような手法も言語道断だったが、他方、鳩山政権の場合、首相自身の明確な態度が見えにくく、また政府・与党関係者のさまざまな「つぶやき」がメディアに流される分、期待から失望、怒りに向かう傾斜は鋭角である。

 そもそも2009年8月の総選挙で鳩山氏は、「国外、最低でも県外」という主張を展開した。「最低でも」という言葉は軽くない。 これは「沖縄県内」の可能性を選択肢から限りなく除去するほどの勢いをもつ。また、県民大会前日、首相は、「辺野古の海に立って、海が埋め立てられることの自然への冒涜を大変強く感じた。 現行案が受け入れられる話は、あってはならない」と語った(『朝日新聞』4月25日付)。 これにより、沖縄県内、とりわけ現行案の辺野古は選択肢から消えた、と考えるのが自然だろう。だが、ここへ来て一気に浮上した「杭打ち桟橋」(QIP)方式は、美しい辺野古の海底に数千本の杭を打ち込むわけで、これは「自然への冒涜」ではないのか。「埋め立て」ではないから「冒涜」ではない、というのなら、それは詭弁というものだ。 現行案受け入れが「あってはならない」という表現も、現行案への強い否定的傾きをもつ。修正案なら「あってもいい」というのなら、最初から「あってはならない」という強い表現をすべきではなかった。

なお、日本自然保護協会は4月28日、「杭打ち桟橋」では「太陽光の遮断や減少で光合成が阻害され、海草藻場が消失する上、海流の変化で藻場の分布面積が減る」「サンゴ礁生態系の一つの攪乱が、辺野古・大浦湾の全体への影響を与える」と警告し、 「生物多様性豊かな海域で大規模な米軍飛行場をつくること自体が問題であり、首相が言う『埋め立ては自然への冒涜』と何ら違いはない」と批判している(『琉球新報』4月29日付)。  先週、首相は徳之島出身の有力政治家と会った。 明日(5月4日)初めて沖縄を訪問して、沖縄の知事や市長に政府案を「説明」するという。なぜ、このタイミングなのだろうか。 これでは、「県内移設」を飲ませるための「説得」としか受け取れないだろう。

 立場は逆だが、米国メディアから出てきた反応も、同様の違和感やためらいを反映しているように思う。それを象徴する言葉が「ルーピー」(loopy)である。 ワシントンポスト紙コラムに出てきたこの単語は「愚かもの」と報道されたが、その後、執筆した記者自身が解説を加え、「現実から奇妙に遊離している」という意だと注釈してみせた。 辞書で“loopy”を引くと英国俗語で「気がふれている」「気が変な」(crazy)と出てくるが、私は第一の意味である「輪の多い」(full of loops)ではないかと思う(『新英和大辞典』研究社)。 ぶらさがり記者会見で、米国も、沖縄も、徳之島も、国民の皆さんも、すべてが「よし、これで行こう」という方向を考えている、と語るとき、気をつかう相手の「輪」の多さばかりが目立つのである。 いま、「あってはならない」はずの現行案に限りなく近いところまできている。 これは、「すべての皆さん」のうちの、一番弱い沖縄を「切り捨て」、さらに「辺境」の辺野古に「押しつけ」ていくことにならないか。

 12年前の憲法記念日、沖縄の地元2紙に私の評論が掲載された。 『琉球新報』は 周辺事態法批判を軸に書いた「憲法診断・沖縄から見える」、『沖縄タイムス』は「地方自治の可能性――沖縄から見える憲法」であった。

この原稿は、投票直後の憲法記念日に書いたものである。 もしも鳩山政権による「桟橋方式」が本当に政府案だとするならば、再び、名護市辺野古が注目を浴びることになる。 そのさらに先の二見以北地区。その瀬嵩にある知的障がい者施設「名護学院」の真下に、キャンプ・シュワブが広がる。 移転先を辺野古にすることは、ここに入所している人たちが確実に被害を受けるということである。

鳩山首相は修正案を採用せず、あくまでも普天間飛行場返還と海兵隊の米本土などへの「撤収」の方向 (私のいう「圏外移設」) で交渉してほしい。


 地方自治の可能性


――沖縄から見える憲法――

 

 長いスロープを上がると、重症者病棟だった。木々が絡むフェンスの間から、キャンプ・シュワブが見渡せる。名護市瀬嵩の知的障害者施設・名護学院。市民投票に向けて、職員たちは「障害者にも知る権利がある」と、手作りの紙芝居を作り、海上ヘリ基地問題を伝える努力をした(本紙昨年〔1997年〕11月18日付)【注】。私はこのことを、 NHKラジオ第一放送「新聞を読んで」で紹介した。

3 月に名護学院を訪れたとき、重度障害者の描いた絵を見た。美しい緑の山の上を、軍用ヘリや戦闘機が飛び交う。長い時間をかけ、全身で表現したものだ。「百人の障害者がいれば、百通りのケアがあり、伝え方がある。 市民投票を通じて、私たち自身が知的障害者とどう向き合うかを改めて学びました」。職員の一人が、さわやかな表情で私に語った。

沖縄の基地問題はいま、困難に直面している。その解決の方向と内容は、次世紀における日本とアジアの平和のありように大きく関わってくるだろう。 だが、日本の中央政府の政策選択の幅は著しく狭い。ジャンケンに例えれば、米国がパーを出し、政府がグーを出す。 そして政府は、交付金や補助金をちらつかせながらパーを出し、地方自治体はグーを出す。だが、沖縄の基地問題では、政府がパーを出したけれども、沖縄(当初は名護市民)はチョキを出した。 ほかの国の中央政府なら、自国の自治体の言い分を代弁して、「同盟国」に対してもチョキを出す選択肢を捨てることはしない。 「自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする」(憲法前文第3 段)ならば、当然のことである。ところが、この国の中央政府は、米国に対してチョキを出すことを初めから放棄し、沖縄にグーを出せと執拗に求めている。これでは問題は解決しない。

米国内にも、海外に巨大な海外遠征軍(海兵隊)を置くことの是非を問う声が存在する。米軍の兵力構成の見直しを求めるなかで、海上ヘリ基地を置かず、普天間基地を返還させる。困難な課題だが、次世紀に向けての「歴史の選択」として、間違ってはいない。

憲法92条は「地方自治の本旨」を定める。 その内容は多くの可能性に満ちている。憲法上明示された他の諸機関の権限を侵害したり、住民自治・団体自治を後退させない限り、時代の要請に応じた新しい活動形態に対しても開かれている。 それには、自治体が他国の自治体とさまざまな協力関係を結ぶことも含まれる(「自治体外交」)。

今後、 沖縄県知事や出納長ら による活発な対米交渉が展開されるだろうが、 それは次世紀に向けた自治体の活動のありようとして、積極的に評価されるべきである。市民もまた、さまざまなチャンネルを通じて、米国市民やアジアの民衆に対して働きかけを行っていくことが大切だろう。  21世紀。時代のキーワードは「平和と自治」である。沖縄の動きの一つひとつが、日本全体への重要な問題提起となることを、県民はもっと自覚してほしい。名護学院の正門は、昼夜を問わず閉じられることはないという。憲法もまた、市民や自治体の活動に対して、常に開かれている。

(『沖縄タイムス』1998年5月3日付)

【注】名護学院では、子どもから73歳のお年寄りまで約250人が生活する。平均年齢42歳。約3割は20年あまりここにいる。名護の住民投票では、利用者たちこそこの問題を理解する必要があると、紙芝居が作られた。「知的障がい者は抽象的な言葉の理解が難しい、あるいは分かっていても、そのことを言葉で伝えられない。でも24時間をここで過ごす彼らが、この問題を知らなくていいはずはない」。職員たちのそんな思いが紙芝居になった。以上、『沖縄タイムス』1997年11月18日付〔木村文記者)から抜粋。

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