早川弘道さんのこと 2011年7月25日

の直言を始めて14年7カ月の間に、特定の個人について書いたことが何回かある。大学院時代に直接ご指導を頂いた沼田稲次郎・元東京都立大学総長芦部信喜・東大名誉教授久田栄正・北海道教育大学名誉教授鎌田定夫・長崎総合科学大学平和研究所長H・シュミット・ベルリン市ティアガルテン区元教育長(平和フォーラム代表)北野弘久・日本大学名誉教授である。そのほかにも、さまざまな出会いがあった。最近では、かつての同僚、鳥居喜代和氏が病に倒れ、その論文集を編集したことについて、またその論文集に対して、立命館大学が「特別博士号」を授与したことについても書いた。今回は、今年1月に亡くなった同僚、そして高校の先輩でもある早川弘道氏(早稲田大学法学学術院教授、ロシア・東中欧法、享年63歳)について書こうと思う。

早大法学部の専門科目担当教授の現職死亡は、私が大学院生だった1979年6月、恩師の有倉遼吉先生が亡くなって以来のことである。学年末のたくさんの仕事を残して、愛弟子の修士論文審査を前に、早川さんは逝ってしまった。いまも8階の早川研究室はそのままになっていて、「水島君、これ頼むよぉ」と言いながら出てくるような錯覚におそわれる。それほど、突然の死だった。

早川さんは1947年12月生まれ。東京都立国立高校の社会科学研究部の「伝説的先輩」だった。高校時代に直接お会いする機会はなかったが、校庭の端にあった部室棟2階の社研部室には、手書き・ガリ版刷りの早川さんのレジュメが残されていた。

1971年に早大法学部卒。すぐに大学院修士課程に進学。博士課程を経て、1974年に法学部助手に嘱任された。以後、専任講師(1977年)、助教授(1979年)を経て、1984年、36歳で教授となった。1995年に博士(法学)の学位を取得している。

26歳のデビュー作「全ロシア憲法制定議会の終焉」(『思想』606号、岩波書店、1974年)は学界で高く評価されている。私は72年に法学部に入学したが、院生・助手時代の早川さんの作品を『早稲田法学会誌』や『早稲田法学』などで読み、緻密な実証研究に敬服していた。私は憲法専修だったので、研究会などでご一緒する機会は少なかったが、高校の先輩としてずっと尊敬してきた。

1996年、私が早大に教授として着任すると、「水島君の本読んだよ。面白かった」「今度さぁ、こういう企画やるんだけど、ちょっと手伝ってくれないかなぁ」といったトーンで、気楽に声をかけてくれた。ただ、お互い「群れる」のが嫌いなタイプのようで、同じ高校ということで会ったり、そういう会合に出たりすることはなかった。早川さんと二人だけで食事をしたり、飲んだりということも、15年間一度もなかった。年に数度、研究室で話をする程度だった。私は彼の意見・立場と完全に同じというわけではなかったので、それがお互いに快適な距離だったのかもしれない。それでも、「後輩」としてやさしく見守ってくれているという眼差しは感じていた。もう少しお付き合いしておけばよかったと、今になって思う。

早川さんはメールもパソコンもやらない頑固な手書き派なので、連絡はいつも手紙か電話である。研究室の留守録にあの特徴的な声が録音されていて、私の方から電話をかけるというパターンである。研究室はすさまじい数の洋書の山で、その隙間のようなスペースに腰をかけ、パイプの煙をくゆらせながら語るのが常だった。本の虫で、「お別れの会」で配られた写真を見ても、外国の研究所や古本屋で撮影した写真が多い。本に囲まれているのが一番似合う学者だった。
   少々へそ曲がりのところがあり、アカデミックガウンを来て入学式に臨むときも、ジーパンをはいて大隈講堂に来たことがあった。厳かな壇上でラフな恰好はかなり目立った。

研究テーマは旧ソ連の国家・憲法・民族の問題などから始まり、その後、東欧、中欧の憲法や政治制度に広がっていった。冷戦時代の早い時期に「民族」という観点から旧ソ連の政治・法システムを分析していた。旧ソ連は少数民族の構造的迫害国家だったので、民族問題からのアプローチはソ連邦崩壊を予測するようなところがあった。ハンガリーを中心とした東欧や中欧の憲法や政治制度の研究については、日本有数の研究者だった。ルカーチの思想研究も深めていて、何本も研究論文を発表している(冒頭の写真は、ハンガリー訪問時のルカーチ像との記念写真)。単著は『東欧革命の肖像――現代ハンガリーの憲法と政治』(法律文化社、1993年)と『ソビエト政治と民族』(成文堂、1995年)である。いずれも高く評価されており、これで博士号を取得している。

早大比較法研究所に「旧ソ連・東欧諸国における体制転換と法」の研究プロジェクトを立ち上げ、私もずっとメンバーの一人だった。私に与えられたテーマは、旧東ドイツ「1953年6月17日事件」の研究だった(後述)。2008年から2010年まで比較法研究所の所長を1期務めている。

早川さんは私立大学の教員組合の中心メンバーであり続けた。早大教員組合の1986年度書記長をつとめ、日本私大教連の執行部に入り、東京私大教連委員長(2001〜2003年)、日本私大教連委員長(2005〜2007年)を歴任している。学内の民主的合意形成をはかる「全学審議会」の発足にもかかわり、その関係から、共編著『大学改革――早稲田は探究する』(労働旬報社、1994年)を出版。「大学の自治」と「大学改革」について積極的に発言してきた。私が着任した直後の1998年総長選に立候補している。
   そうした関係から、学内問題では、歴代総長も一目おく、早稲田のご意見番的存在だった。教授会でも、「大学の自治」に関わるような事項になると必ず発言して、教授会を長引かせる常連でもあった。

彼が日本私大教連委員長のとき、3年連続で大会の基調講演を依頼された。05年と06年は先約があるため断ったが、07年は、「水島君、今度ばかりは頼むよぉ。僕が委員長としての最後の大会だからさぁ」と引かない。彼の勢いに押されて、前後の日程をやりくりして講演を引き受けた。2007年8月、久留米大学(福岡県)で開かれた私大教連大会の会場に着くと、早川さんは満面の笑みを浮かべて出迎えてくれた。「これでかっこがついたよ。ありがとう」とうれしそうだった。

「頼むよぉ」という押しの強さに再び負けたのは、前述の比較法研究所のプロジェクト研究だった。早川さんは、学外の著名な学者を招いて、ロシアや東・中欧の問題について連続講演会をセットした。「旧社会主義国における法と社会」の第2回「東西ドイツから統一ドイツへ」で、学生時代から尊敬してきた広渡清吾先生(専修大学教授、日本学術会議会長)がドイツ統一と法について報告したあと、私は「東ドイツ1953年6月17日事件の今日的解読」について報告することになった。仕事がたて込み、およそ無理だと思ったが、早川さんが真顔で、「これは最後のお願いだよぉ」というので受けることにしたものだ。今にして思えば、「最後のお願い」という言葉に何とも言えない重みがあった。

報告の日が近づくにつれて準備をしなければと気ばかり焦る日々が続いた。早川さんをがっかりさせたくない。その一途で、11月の連休に4日ばかり、八ヶ岳の仕事場にこもって資料を集中的に読む機会を作った。ところが、いざ旧東ドイツ時代の政府や党の生々しい資料を読んでいくと、これが実に面白いのだ。夜遅くまで読み込んでしまった。そして、報告レジュメが完成した(「東ドイツ1953年6月17日事件の今日的解読」(PDFファイル))。この直言でも「6月17日事件」50周年について書いたことがあるが、1991年に東ベルリン滞在時に収集した資料や文献を読んでみて、知的興奮を覚えた。早川さんに報告を頼まれなければ、おそらくずっとこの資料・文献の山は「積ん読」状態になっていたことだろう。

 昨年12月17日の研究会の当日、司会をする早川さんが欠席した。体調が悪いということだった。早川さんに報告を聞いてもらいたいと思って準備してきたので、残念でならなかった。報告後の討論は、さまざまな方が発言されて、実に刺激的だった。このような機会を与えてくれた早川さんに感謝しようと電話をした。「ごめんなぁ。ちょっと出られなくなっちゃってさぁ。でも、君のレジュメは見たよ。実におもしろい。本当にありがとね」。それだけの電話だったが、これが最後の電話になった。

年が変わって1月の第2週、同僚から電話が入った。早川さんが再び入院したのだが、今度は経過がよくないということだった。
   2年ほど前に、エレベーターのなかで、「水島君。僕、癌なんだよ。ちょっと手術してくるから。あと頼んだよ」と気楽に言われてびっくりしたのを覚えている。手術は成功し、彼は仕事に復帰した。その後、癌が転移して、再び手術。そのときも、「奇跡的に復活したよ」といって、笑顔を見せたものだった。だから、1月に入って容体が急変して入院したと聞いて、ひどく驚いた。すぐに見舞いに行こうと携帯電話にかけると、奥様が出られた。15日は名古屋講演があったので、16日14時に病室に見舞う約束をとった。そして、翌朝、名古屋に向かおうとしていたとき、同僚から電話が入った。未明に早川さんが亡くなったというのだ。茫然自失の状態が少し続いた。気を取り直して名古屋に向かい、講演を終えて帰宅。すると再び連絡がきて、16日14時から八王子の斎場でご遺体とお別れする会が開かれるという。皮肉なことに、早川さんを病室に見舞うアポをとった時間に、ご遺体と体面することになった。何ということだろう。もっと早く見舞いにいくべきだったと後悔した。

斎場には、同僚や友人、知人、教え子たちがたくさん集まった。早川さんは本当に穏やかな表情をしていた。「長い間、ありがとうございました」と手を合わせた。

3月2日13時から学部主催の「お別れする会」が開かれた。3月24日15時からは、早大教員組合会議室で「偲ぶ会」が教職員有志によって行われた。計画停電や電車の間引き運転のなかで、早川さんゆかりの人々が集まった。
   それぞれの会でのスピーチから、私の知らない早川さんの一面が明らかになった。彼はやはり、最後まで頑固な学者だったと思う。

早川さんは、山梨県北杜市武川にログハウスをもっていた。私の仕事場から車で15分くらいのところなので、一度、甲斐駒ヶ岳を眺めながらじっくり語り合おうと言っていたが、ついに果たせなかった。

「早川さん、安らかにお眠りください」。そう言いたいところだが、世界も日本も、そしてこの早稲田も、問題山積で、先行きも不透明。早川さんの厳しい言葉がほしい場面が増えそうである。

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