これが「不当な支配」なのだ  2007年6月4日

かれと思っても、それを押しつけてはならない。これはどんな世界でも、どんな関係でもいえることだろう。力をもった人々、特に権力担当者やその周辺にいる人々が、ある種の使命感をもって「よいこと」を押しつける。そういうとき、世の中は息苦しくなってくる。とりわけ教育の世界に、力のある、声の大きな人々が介入してくるとき、現場は萎縮する。

  1947年教育基本法は、「力のある、声の大きな人々」から教育を守るための支えとしてあった。その要が、「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである」「教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない」という第10条である。旭川学力テスト事件の最高裁大法廷判決(1976年5月21日)も、「教育行政機関がこれらの法律を運用する場合においても、当該法律規定が特定的に命じていることを執行する場合を除き、教基法10条1項にいう『不当な支配』とならないように配慮しなければならない」と指摘し、「教基法10条1項は、いわゆる法令に基づく教育行政機関の行為にも適用がある」と判示していた。結論で、行政権力の「不当、不要な介入」を排除し、「許容される目的のために必要かつ合理的と認められる」ものは禁止されないとして、国の施策を肯定したものの、国の介入に歯止めをかけ、「不当な支配」にならないよう自覚と自制を促していたことは記憶されてよい。

  いま、首相という最高権力者が先頭に立って、教育の全分野に対して、執拗で、粘着質な介入を行っている。その彼がまずやったことは、上記の「抑制」の基本を外すことだった。2006年教育基本法16条は「不当な支配」という文言こそ残したものの、法律の根拠さえあれば、教育の内容に行政が介入できる傾きを格段に強めた
   それに続き、2007年5月、「教育三法」を一気に成立させた。学校のなかに効率と管理の発想だけで、副校長・主幹・指導教諭など、教育現場が求めてもいないものを次々増やしていった。指揮命令関係から一番遠いはずの教育の世界で、職制・上下関係が実質化していく。また、教員免許の更新制も、いまのシステムのなかで定着すれば、何もよい結果をもたらさないだろう。どこの国でも、教育は地方の権限である。教育の地方分権の象徴だった教育委員会の仕組みは、中央集権の方向に一段とシフトさせられた。

  安倍首相は、教育内容を徹底的にいじくりまわす機関も設置した。「教育再生会議」である。安倍式教育「再製」会議とでも形容したいところのものだが、それが6月1日、「第二次報告」を首相に提出した。教育に関していくつも審議会があるのに、何でこんなものをつくったのか、と発足当初から批判が強かったものである。中教審ではお高くとまって、時間がかかるとふんでか、自分流の本音を出してくれる提案がほしかったのだろう。委員の構成をみても、安倍首相の「お友だち路線」は徹底している。自分の「お友だち」と「お友だちのお友だち」を集めた結果、本田由紀(東大准教授)が早い時期に批判したように、教育学の専門家がいないという致命的な弱点をもっていた(「教育再生会議を批判する」『朝日新聞』07年1月29日)。その危惧は現実化したといっていいだろう。第一次報告も、今回の報告も、教育現場の切実な声というよりは、メンバーが好き勝手に語った、放談や雑談の類に近いものが並んでいる。『朝日新聞』2日付社説は「教育再生会議 一から出直したら」と批判しているが、私は「出直し」程度の問題ではないと思う。そもそも、教育について、ここまで内容に踏み込むこと自体が問題なのである。「入学から卒業まで」、「親学」から大学院の研究にまで口を出し、安倍式教育「改革」の、自制も抑制もない暴走が始まったというのが率直な感想である。

  安倍首相の政治手法からすれば、第二次報告の内容は、ことごとく実施に移されるだろう。実際、6月中に閣議決定される政府の「骨太の方針」に報告内容が盛り込まれるという(各紙6月2日付)。このテンポの速さは何だろう。安倍首相がやろうと思っていたことを、いろいろな人にいわせて、最終的に報告書という形でまとめたという面も否定できないのではないか。結論先にありき、である。事実、安倍首相が早い時期に口にした「大学の9月入学」「4月から半年間のボランティア」というものも、前者は学校教育法施行規則改正提案という形で早速具体化に移されそうだ。その意味では、教育再生会議委員の勝手な意見や思いつき、思い込みの羅列ではなく、そういう印象は与えながらも、安倍式教育「改革」のエッセンスが確実に盛り込まれているといえるだろう。

  第二次報告の全文やその審議の過程は、ここでは紹介しない。「教育再生会議」の当該サイトでお読みいただきたい。紛らわしいが、「教育再生機構」というのもある。安倍首相の「お友だち」の一人が理事長をやっていて、第二次報告への不満もぶつけている。だが、これは「役割分担」とみた方がいいだろう。さすがに「再生会議」が報告書に盛り込めなかったもの、あるいは曖昧にした部分などを、「再生機構」の方が明確に打ち出している。その意味では、「会議」と「機構」は安倍式「改革」を支える両輪としての役割を保っているのではないか。「機構」のハンバーやそこで語られている内容を見れば、安倍式「改革」の最大限綱領(最終目標)が見えてきて、不気味である。

  「再生会議」第二次報告の特徴は何か。さしあたり次の3点を指摘しておこう。

  第1に、教育の差別化の徹底である。戦後教育の原点である教育の自由や機会均等は軽視、無視、さらには蔑視されて、競争原理が徹底されている。成果主義が隅々まで貫徹して、ゆったりと、時間をかけて「育(はぐく)む」という教育の大切な側面は切り捨てられていく。教育の現場ではそれなりの理由があって、時間をかけてやられていたことも、「再生会議」の発想では無駄として退けられる。「これでは競争に勝てない」という「結果への強迫」が無理強いされ、じっくり考えさせ、結果が出るのを「待つ」ことは許されない。教育が短期成果を求める構造に転換することで失われるものは大きい。教員の人事や給与も、成果や業績に連動して決められていく。労働分野で、終身雇用や年功序列の雇用システムが「日本型」として軽蔑され、労働関係が「多様化」した結果、不正規雇用者が増えた。「ワーキングプア」という低賃金で働く人々も若者を中心に増大した。「働くことは、生きること」といえるには、仕事自体のやりがいや達成感とともに、生活への予測可能性(結婚、子育ての見込み、住宅ローンを組むなど)を伴う必要がある。ある程度働けばクビになるという短期労働に、余裕や見通しは生まれない。教員の間に格差をもうけ、競わせ、ひたすら成果を出すよう追い込む。給与に差が出れば、家庭からの「要求」に耐えかねて、教員として筋を通すことよりも、給与のあがる、命令に従順な道を選択する人が増えるだろう。何とも足元をみた姑息なやり方である。公務員の場合、教育職を一般職よりも少し高く設定してきたのも、お金に汲々としないで、落ちついて教育・研究に励むという期待からだろう。裁判官の報酬が在任中減額されないという仕組み(憲法79条6項)が、裁判官の職権の独立を支えているのとも響きあう発想である。だが、教員の給与体系は変えられ、教員が落ちついて児童・生徒・学生に向き合えなくなる。これは学校社会にとって、致命的ともいえる損失を生むだろう。
   児童・生徒・学生が、(自分の)「役に立つ」ことしかしなくなったら、世も末である。また、「役に立つ」=「金になる」という図式では、それはもう学問とは呼べない。学問とは、そのようなインスタントに「役に立つ」と判断されることのみを指すのではないし、学びはじめの時点ですでに、「これは効率よく役に立つ」と予想されているものなどは、学ぶ対象として底が知れている。役には立たないが、ためになることを求めて、愚直に、こだわりをもって勉強する人々が、学校社会には不可欠なのである

  さて、こうした教員の差別化だけでなく、学校の差別化も強められている。成果に応じた予算配分は、学校間の競争によってレヴェルの底上げを図るのが狙いというが、学校間格差は広がり、「学校選択制」とセットになれば、義務教育や公教育の世界で、格差社会は定着する。特に国立大学の場合、運営交付金の大幅な傾斜配分は、やり方次第では破壊的に作用するだろう。財務省の試算によると、全87大学のうちの85%にあたる74大学で交付金が減額されるという。増額するのは旧7帝大などだけで、教育系大学の減額は著しい(『読売新聞』5月22日付)。成果主義で一面的に格付けすれば、教員養成に特化した教育系大学は大変苦しいのははっきりしているし、これらと研究大学院をもつ大学と同等評価はできない。それを同じ尺度で切っていけば、成果が地味で効率が悪いと評価された地方大学は崩壊せざるを得ない。3月の国立大学協会において、「経済効果だけで教育は測れない」「研究面のみで大学を評価すれば教育は滅びる」という危惧や不安の声があがったという(『朝日新聞』5月17日「私の視点」)。当然である。しかも、第二次報告は、「教授会万能の意思決定システムの廃止」をうたい、大学を企業のようなトップダウン方式に一本化させる、「大学の自治」の死滅提言まで含んでいる。

  第2に、教育内容の恣意的操縦である。「ゆとり教育」という形で、国家が上から全国的に強いた施策への十分な総括も反省もなしに180度転換し、今度は、土曜も夏休みもなしに詰め込みを一律に強制していく。「ゆっくり安め」と上からいわれても、あまり休んだことのない人は時間の使い方が上手にできず、ぶらぶらしているうちに、「たるんどる。もっと働け」と尻を叩かれたようなものである。じっくり、ゆっくり、ゆとりをもって考えるということ自体は間違ってない。それを上から一律に、「ゆとりの押しつけ」として行ったところに問題がある。常に、教育の現場の事情とは別に、「力のある、声の大きい人々」の意見が通っていく。この点、第二次報告は実にシンプルで露骨である。土曜授業の実施、授業時間数の10%増、朝の15分授業、夏休みの活用と、1日24時間、1年365日を、またしても「上から」操作していくのか。

  教員の仕事というのは、政治家や役所には理解できない、実に多様な側面をもつ。何をもって「成果」というのか。すべての研究・教育分野を一律の基準で測ることはできない。教員の仕事の中身も、多彩である。例えば、1コマのゼミが単純に90分でないことは、ゼミ担当教員ならば誰しも体験することである。私は給料分の「ノルマ」としてはゼミは1 コマ90分だが、この10年間、ゼミは180分でやっている。昨年は、ある事情でゼミ1コマを自主的に270分にして半期やった。実際、ゼミ担当の教員ならば、ゼミ1コマに関連してさまざまなこと(準備、質問、コンパ、進路相談、合宿等々)をこなしており、外から見えないところでさまざまな努力をしている。これは小中高の先生方も同様である。特に小学校低学年の場合など、ごく身近に「関係者」がいるので、その大変さはよくわかっているつもりである。だから、学校の外から注文をつける場合には、しっかり現場の声や意見を踏まえてほしいのである
   なお、大学や大学院の「9月入学」も大きなお世話である。「外国がやっているから日本も」というのは安易すぎる。この国では、「美しい」桜の花の下で卒業・入学のような節目の行事が行われるのが長年の伝統であった。「美しい国」づくりと「9月入学」は結びつかない。「9月入学」になれば、「5月病」(企業にとっては「4月病」)がなくなるからいいという問題ではない。第二次報告は、「ギャップイヤー」というものも提言している。大学に合格した学生が、半年程度大学に通わず、「ボランティア」や就業体験活動をするということらしい。これが「9月入学」とセットになって、18歳人口の「マンパワー」を安定的に獲得する施策(徴兵制とはいわないが)との隠れた連動関係がみえてくるだろう。

  さらに、第二次報告は、主な国立大学の大学院について、同一分野の学部出身者を全体の「3割以下」に抑えることを求めている。「3割以下」という数字が合理的とは思えない。当初は「2割以下」だったのが、異論が出て、3割になったようだが、こういう勝手な数字を設定して介入してくるのも、教育の現場の多様性や創造性を削ぐ昨今の施策に共通する発想である。理工系の場合、自校出身者が8割以上を占めており、学部生の「囲い込み」が起きているという認識のようである。法科大学院の発足のときも、自校出身者について制限を設けたのと同じ発想だろう。ただ、大学院の活性化が狙いというが、それは勘違いも甚だしい。今年、国立大の博士課程定員が初めて減少した。「博士離れ」の進行は危機といえる(『朝日新聞』5月26日夕刊)。だから、学部での教育を大学院での研究にうまくつなげていき、研究者を時間をかけて養成していく。こういう地味な苦労は、教育再生会議委員の多くには理解できないだろう(大学院博士課程の研究指導担当〔経験〕者は17人中4人のみ)。
   ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』によれば、大学とは「遊び」に起源をもつ。それは「自由な行動」、「非日常性」(必要・必然からの自由、目的−手段連関の「外」にあること)、「完結性・限定性」からなる(高柳信一『学問の自由』岩波書店、1983年)。しかしながら、国立大学独法化や法科大学院など、この間のさまざまな「改革」が現場にもたらしたものは、これとは正反対の「必要」への従属、「結果」への強迫、「自由な時間」(スコレー)の喪失だったのではないか(日本公法学会『公法研究』67号〔2005年〕拙稿「学界展望」)。第二次報告が目指す大学や大学院のありようは、この方向を極限にまで押し進めるものとなるだろう。

  第3に、教育から「教化」への変質である。再生会議は道徳の教科化など、規範意識の醸成に重きを置いている。
   この3月、第二次報告に向けて、道徳教育の議論が活発化したときがある。『毎日新聞』3月25日付は、「道徳教育拡充論が加速」という見出しで、道徳教育を強調することで、「美しい国」を掲げる安倍首相の路線を補完する狙いもある、と評していた。「ヤンキー先生」こと義家某は、「子どもがインターネットで有害情報を手に入れられる時代に、共通の倫理観がないのは問題だ」といってみたり、トヨタ自動車会長は「ひきょうなことをしてはいけないと教えるという目標を持つべきだ」などと述べている。新教育基本法が「わが国と郷土を愛する」ことを明記したことに照応して、「ふるさと学」を教えて、「家族・地域の大切さを知り、規律ある人間を育成する」という意見も出たという。それほど児童・生徒の心のなかに過剰な介入をしたいのか。安倍首相は目をキラキラさせて、「高い規範意識」の育成を説く。「ナントカ還元水」答弁ほか、すぐにでも解任すべき事情が次々でてきても、松岡農水相(故人)を最後までかばい続けた安倍首相がいう「高い規範意識」には、説得力がまったくない。
   第二次報告は、道徳の時間を「徳育」として「教科化」し、教科書までつくるという。これはもう「教育」ではなく、イデオロギー的な「教化」としかいいようがない。マインドコントロールだ、自由がないと、日頃から非難している北朝鮮教育と、本質的にどう違うのか。安倍式価値観共有者たちが、大きな声、特定の価値観への同調を求めている。学校社会では、特定の価値押しつけは許されない。「親学」や、「子育て提言」はさすがに断念されたが、いつまた報告に盛り込まれるかわからない。再生会議では、「母乳で育てる」などということも出ていた。「産む機械」に今度は「母乳で育てよ」とコマンドを送る。もっとも、「母乳で育てる義務」というと反発をかうから、「母乳で育てられる子どもの権利」を憲法に入れろなんていいだしかねない。まさに、「小さな親切、大きなお世話」「小さなお節介、大きな迷惑」、「小さな思い込み、大きな害悪」の世界である。ちなみに、多様で多面的であるべき外交を歪めているのも、「価値観外交を推進する議員の会」という安倍首相の「お友だち」である(松岡利勝前農水相の後任・赤城徳彦氏もこの会のメンバー)。

  今国会を冷静に見ている人ならば、誰しも思うだろう。国会は議論をするところである。そこで審議をさせないで、どんどん決めていく。しかも、子どもたちの行く末を左右する教育の問題についてさえ、政府が急いで決めていく。「やろうとしていること」がどんなに「美しい」言葉に満ちていても、その「やろうとしていること」を決める「やり方」を見ていれば、これは「危ない」と誰しもが思うに違いない。教育の問題は時間をかけて議論する必要があり、その時々の政権の事情や、審議会の委員の「思い込み」や「思い入れ」で変えられるべきものではない。教育の本質に照らしてきわめて問題のある提案が、大した議論もなしに、期限を切って、あわただしく、強引に実現されていく。このやり方そのものが、教育に対する「不当な支配」につながっていくのである。

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