雑談(102) 焼き切れたタイヤキャップの思い出              2013年10月14日

Cap

央高速の笹子トンネルで重い天井板が100メートル以上にわたって落ち、多くの尊い命が失われた。昨年12月2日の日曜日のことである。崩落箇所は、私にとって日常的に通る生活の一部のようなもので、その日も通過する予定にしていたが、たまたま仕事の都合で3時間遅らせたため、この原稿を書くことができている。そのことは、今年1月の直言で詳しく書いた

28歳で自動車免許をとってから、どれだけの距離を走ったか記憶にない。その間、いろいろと危うい場面にも遭遇した。

雪に閉じ込められた体験は、1983年12月、北海道の大学に就職して最初の冬のことだった。通勤路にしていた北海道道「江別・恵庭線」で、猛吹雪のなか、まったく前が見えなくなり、気づいたら道路脇に落ちていた。みるみる車は雪に埋もれていく。周囲に人家はない。意識が少し遠のきそうになったとき、目の前がパーッと明るくなった。トラックがとまっている。運転手が窓を叩き、「大丈夫ですか」と声をかけてくれる。ややあって、もう1台トラックが停車し、数人がかりで車を道路に引き上げてくれた。「お礼をしたいのですが…」と言いかけると、「最初に見つけた人が助けるのさ…」と走り去っていった。「見過ごすと春までそのままになる」という話を後から聞いた。私には、この冬の体験は、北海道のあたたかい思い出として残っている。

翌1984年9月21日(金)、当時の手帳によると、午前10時開催の学内誌の編集委員会に向かっていた。午前9時20分頃。同じ「江別・恵庭線」西野幌付近で車がパンクした。横道に入ってタイヤ交換をしようと思い、ウィンカーを出して左折しようとした。その瞬間、ノーブレーキの乗用車に追突された。見通しの圧倒的によい、どこまでも真っ直ぐな道である。左折しようとする私が見えないはずはないのだが、江別署によると、追突車は先行するトラックの後方を、車間距離をつめて走っていて、トラックが私の車を見つけて右にふくらんで追い越そうとした時に、たまたま脇見をしていて、気づいたら私の車にぶつかっていたそうである。救急車で江別市立病院に緊急搬送。鞭打ちで約1カ月入院した。私にとって幸いだったのは、追突した角度の関係で、相手の車は道路右側に落ち、私は左側に落ちる形になって、衝撃が分散したことである。それと、当時はまだシートベルト着用が義務化されていなかったが、私は必ずするようにしていたことだ。これらの事情が重ならなかったら、私の人生は31歳で終わっていただろう。

次の体験は、36歳で広島大学に移ってからのこと。1991年12月6日(金)午前11時過ぎ。午後1時10分からの講義のため、東広島市八本松の自宅から東千田キャンパス(広島市中区)に向かっていた。国道2号線の瀬野付近。硫化水素を積んだ20トントレーラーに左後部から追突された。状況はこうである。

八本松から瀬野まで、国道2号線は長い下り坂が続く。瀬野付近で2車線になったところで最初の信号がある。私は追い越し車線を走っていて、前方に自動車部品を積んだ大型トラックがその信号が赤で停車していた。走行車線にはワンボックスカーがとまっている。私はセカンドギアでゆっくり走り、前のトラックが発進したらすぐに加速できるようにしていた。そのため、私とトラックとの間は車2台分くらい開いていた。とその時、その隙間に巨大トレーラーが斜めに突っ込んできたのである。私はセカンドギアだったのですぐにハンドルを右にきって、対向車線に入りながらかわそうとしたが、ガリガリガリッという衝撃を左後部に感じた。車外に出てみると、走行車線のワンボックスカーはトレーラーに追突されて後部がへこみ、私の車の左後部が激しくつぶれている。

海田署での事情聴取でいろいろわかってきた。当時の手帳を見ると、20トンのトレーラーを引いたトラックは、長い下り坂でブレーキがきかなくなり、2車線になったところで走行車線のワンボックスカーにぶつかりながら、追い越し車線の私の車とトラックの間の隙間に突っ込んで停めようとしたようだ。もし私が前のトラックとの車間を詰めていたら、トレーラーはワンボックスカーをまっすぐ押し込つぶす形になって、被害はもっと拡大していたに違いない。マニュアル車を運転していると、ローギア発進をしないですむように、赤信号が見えた場合、完全には停車しないでタラタラ走ることがある。交通法規上、赤信号では完全停車が原則だが、この場合、この曖昧な走りが幸いしたようである。

43歳で早稲田大学に着任し、1999年3月から翌2000年3 月まで、ドイツ・ボン大学で在外研究をした。その間、中古のオペル・ベクトラを買って、欧州各地をまわった。ルクセンブルク山中でそれまで体験したことのない深い霧に遭遇した。ポーランドでは、国境近くで、オポール警察の怪しい交通取り締まりにもあった。ボン市内のホテルで人と待ち合わせていたとき、黒いランドクルーザーが真っ直ぐ正面玄関に突っ込んできて、ガラスのドアを破壊してロビーに入ってくるという、まるでアクション映画のワンシーンのような場面にも立ち会った

License Plate

これはドイツで乗っていた私の車のナンバープレートである。帰国時に陸運局のマークなどを削られて、記念に持ちかえることが認められたものだ。“BN”はボン在住の意味。ベルリンなら“B”、ミュンヘンなら“M”となる。“AM”は私のイニシャルで、私の誕生日“403”を希望したが、すでに誰かが使っているというので、任意の数字、“393”を割り当てられた。

帰国の少し前、私のドイツ滞在に付き合ってくれた家族のため、ボンからベルリン、ローマまでの全行程4110キロの車の旅をした(直言「イタリアの交通事情」参照)。その時、いま思い出しても背筋に冷たいものが走る体験をした。

旅に出て1週間が過ぎ、「ピサの斜塔」で有名なイタリア・トスカーナ州ピサ市に着く頃、娘が1年通ったボン・インターナショナルスクールの友だちに会いたいと言いだした(数日後に帰国するので)。そこで8日目の朝6時にピサを出て、その日のうちにボンに戻ることに決めた。1日で1100キロ走る。スイスの大トンネルは狭くて暗い。片側2車線で、走行車線はトラックがびっしり並んで走っている。もっぱら追い越し車線を走ったが、後方からイタリア車が接近してきてバッシングしてくる。クラクションまで鳴らすのには驚いた。手に汗がにじんだ。こちらも時速100キロ以上出ている。

やっとトンネルを抜けて、少し先のドライブインに入って車を見ると、左前輪のホイールが傷だらけで、タイヤのエアバルブキャップの先が焼け切れ、ドアに細い黒い筋がついている。ドロドロに溶けたゴムで、触って見るとまだあたたかい。イタリア車にあおられて、私は壁にわずかに接触したらしい。だが、ほんの5ミリほどの接触で、先端部分だけが溶けて後ろに飛び散ったものだ。あと1〜2センチでも壁側に寄っていれば、車体と壁との激しい摩擦でスピンして、事故につながった可能性が高い。私はこのキャップを「身代わり鈴」のように、ボン近郊の城レストランでもらったマッチ箱に入れ、この13年間、ずっとお守りとして持ち歩いている。

とはいえ、一番注意しなければならないのは、自分自身が交通事故を起こす側になることだろう。月平均560キロは走る。高齢者ドライバーになりつつあるので、気を引き締めて運転しなければと思っている。


《付記》学会シーズンのため、ストック原稿の「雑談」をアップします。

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