還暦の年を迎えて――激動の2013年への抱負 2013年1月7日


年明けましておめでとうございます。今年も「直言」をどうぞよろしくお願いします。

 これまで年頭では、その年の特徴的傾向や、個人的な抱負を語ってきた。17回目の年の始めの「直言」である。昨年は、「3.11」の1周年に向けた決意を書いた。個人的な抱負については、2011年に簡単に触れている。8年前の正月には、「還暦の年に『易』を語る」をアップした。「還暦を迎えるといっても私のことではない。…『戦後の還暦』『国連(憲章)の還暦』『ヒロシマ・ナガサキの還暦』を意味する」と。今回は、ついに私自身の「還暦の年を迎えて」である。4 月に60歳になる。月並みだが、今年の抱負を、「大学教員のお仕事」に即して4 点述べておこう。

第1に研究面である。昨年10月に学会の代表を降りたので、少し自由に研究したいと思っている。単著、共著を複数出版する予定である。「待ったなし」の状態にあるものも複数あるので、これらも何とか出したいと思う。大きな講座の編者にもなっているので、これについても努力したい。

 なお、私の勤務する大学の理事会が、教学の最高機関たる学術院長会の同意も得ず(審議事項ではない「諸件」で出す)、教員組合にも交渉事項としてはからずに、教員研究費を半額に減らすという暴挙に出た。「研究推進部」と称するセクションも、個々の教員の研究に口を挟んできたりと、「学の独立」を旨とする大学にしては、近年の「世間」や「国策」に悪のりする志の低さは「窮(きわま)り知らず」の感がある。今年もこういう不愉快な動きがいろいろとありそうである。ますます忙しく、気ぜわしい大学。自由でおおらかな雰囲気が薄れていくなかでも、何とか研究は持続していきたいと考えている。改憲から「壊憲」への傾きが進むなかで、その理論的解明も行いたい。

第2に教育面。大学教員になって30年。残りの10年をどう過ごすか。教員20年の時は張り切っていた。今も40代と同じコマ数の大講義を担当し、複数のゼミをもっている。まだまだ体力的には対応可能だが、あと10年あることを考え、生命エネルギーを使い切らないよう注意したいと思う。ゼミの16、17期生との合宿を含め、フィールドワークも従来と変わらず重視していきたいと思う。

第3は学内行政。会議は相変わらず多いが、「長」のつく超多忙な仕事がまわってこないのが幸いである。これからもこの「運」を持続したいと思う。

第4に講演などの社会的活動である。昨年5月3日の香川県高松講演で、日本全国47都道府県すべてで講演したことになる。2013年の憲法記念日は岡山市で講演する。かなり例外的なことだが、憲法記念日2回目になる。これからも、東京(近県を含む)以外の地方を優先していく。この点は小沢一郎氏の選挙戦術、「川上から川下へ」と似ているかもしれない。都会にはたくさんの団体が存在し、さまざまな講演会をやっている。私がやっても、そのうちの一つにすぎない。だが、地方に行けば、講演などの機会は格段に少ない。憲法記念日について言えば、都市部ではいろいろな団体ごとに講演会が開かれるが、地方では、さまざまな団体が一つにまとまって実施するところも少なくない。そのような統一企画は積極的に受けるようにしている。

 なお、2001年4月、八重山諸島を含む沖縄各地を1 週間かけて講演してまわる企画があったが、授業との関係で那覇と名護だけにして頂いた経緯がある。沖縄にとって今年は正念場になるだろう。再びその種の企画がなされたら、今度こそ受けたいと思う。

 最後に、個人的なことを一言。来月、2人目の孫をもつことになる。生まれいずる小さな命の鼓動を身近に感じながら、生命の尊さを改めて思う。子どもを初めてもった20代の時よりも、小さな命に敏感な自分がいる。だから、日々の仕事のなかでも、全国各地に行ったときでも、そこでの出会いを大切にしている。「二度とない人生だから、つゆくさのつゆにも、めぐりあいの不思議を思い、足をとどめてみつめていこう」(坂村真民)

 その日で人生が終わっても悔いがないように、その日を精一杯生きる。そんな心境にさせられる体験をした。

 12月2日。立命館大学(京都市)での講演を控えて、早めに八ヶ岳の仕事場を出て東京の自宅に戻る必要があった。ネットで調べると、中央自動車道上りの渋滞が始まる予想時間は午後2時。そこで、朝、7時頃出ることに決めた。しかし、仕事をもう少し仕上げておこうと思い、午前10時に小淵沢インターに入ることに変更。9時になり、NHKの「日曜討論」を流しながら原稿を書いていた。突然、司会の島田敏男解説委員が、発言しようとする政治家を制して、「ここでニュースです」と言った。私はびっくりした。選挙前、しかも12党の代表が参加する政治討論会を中断してまで伝えるニュースとは。「山梨県の笹子トンネルで崩落。複数の車が巻き込まれ、火災も」。背筋に冷たいものが走った。予定通りに出ていれば巻き込まれていた可能性は十分にある。中央道は今年になって、往復で41回使っている。上り線の崩落箇所は20回通過したことになる。21回目が「その時」だった。3年前、その先の小仏トンネル内の車両火災に遭遇し、高速道路上に3時間も「拘束」された体験を思い出した。

 笹子トンネル手前の一宮御坂ICで下りると、国道20号が大渋滞。中央道下を通る国道横から、緊急車両が出入りする場所をノロノロ通過した。マスコミ各社の車が、狭い側道に鈴なりに停車していた。帰宅するのに4時間かかった。

 笹子トンネルでは、1トンもある天井板が110メートルにわたって落下し、走行中の車3台を押しつぶした。この事故で9人の命が失われた。1977年に開通した笹子の天井板は、つり金具をアンカーボルトでトンネル上部に固定させる形だった。このボルトを接着剤で固定していた部分が劣化して抜けたようである。中日本高速の責任者が事故の原因を問われて、「経年劣化」という言葉を使ったのには驚いた。ハンマーで留め金を叩いて音で判断する「打音検査」は、2000年以降、笹子では実施されていなかったという。いつ、どこで落ちても不思議ではない。道路公団民営化の過程における、安全管理費の「概ね3割の縮減」(猪瀬直樹・道路関係四公団民営化推進委員の意見書)との関係も、今後検証される必要があろう。

 出発を3時間遅らせて、命拾いすることになって思う。人は生かされている。毎日、毎日を、その日だけと思って真剣に過ごす。還暦を迎え、残りの人生、精一杯生きようと決意を新たにしている。

《付記》冒頭の写真は大槌町の「希望の灯り」(2012年11月20日撮影)。もう1枚は、津波で破壊された石巻市立大川小学校の2001年度卒業生の作品である(同年2月12日撮影)。

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