過度の厳罰化と「象徴立法」――自動車運転死傷行為処罰法              2013年11月25日

国会議事堂

法をめぐる状況はきわめて深刻である。この1カ月、授業の合間をぬって群馬、長崎、北海道(旭川)、岡山、福島、千葉(市原)などで講演してきた(多くは日帰り)。特定秘密保護法をめぐる国会の動きも最終段階に入った。この法案のもつ治癒不能な問題性について、メディアのなかにもこれを伝える動きがようやく生まれてきた。だが、肝心の法案を審議する委員会は空席が目立ち、密室での「修正」協議の名を借りた翼賛化の様相を呈している。政府提出法案がシャンシャンと決まっていく。一体、国会「議事」堂はどこへ行ったのか。

尾崎行雄〔咢堂〕はいう。「元来議会なるものは、言論を戦わし、事実と道理の有無を対照し、正邪曲直の区別を明かにし、以て国家民衆の福利を計るが為に開くのである。…故に事実と道理の前には、如何なる多数党と雖も服従せざるを得ないのが、議会本来の面目であって、議院政治が国家人民の利福を増進する大根本は、実に此一事にあるのである」と。

衆参両院で安倍自民が圧倒的多数を占め、「議事堂とは云ふものの、ホンの名ばかりで、実は表決堂である」という尾崎の言葉がリアル充分の昨今である。

整理券

その国会議員を選ぶ仕組みにおける欠陥(議員定数の不均衡)について、今年3月、14の高等裁判所が違憲判決(2つは選挙無効)をもって応えた。それに対する最高裁の判決が先週20日に出された(写真は、当日、水島ゼミ16期生が入手した整理券)。違憲判決を予想していたが、「0増5減」などを前向きに評価する「違憲状態」判決にとどまった。立法と司法の関係についてあえて言及しながら、国会の裁量権を過度におもんばかるものだった。「違憲常態」となっている現状に対して、裁判所の果たすべき原点に立ち返って、ここは素直に違憲とすべきケースだったように思う。とはいえ、安倍内閣を誕生させた12年総選挙が合憲だとする判事が皆無だったことは軽視できない。加えて、違憲とする反対意見を書いた判事が3人いたこと、1人の判事(鬼丸かおる裁判官)が、投票価値を「1対1」に近づけることが「憲法上の要請」であるとする意見を付したことは注目される。現行の選挙制度(小選挙区比例代表並立制)には根本的な欠陥があることも忘れるべきではない。

さて、上記の判決が出された同じ日、一つの法案が参議院で全会一致(!)で可決・成立した。「悪質運転厳罰法」という見出しを付けた新聞もあった(『朝日新聞』11月20日付夕刊)。正式名称は「自動車の運転により人を死傷させる行為等の処罰に関する法律」。遺影を抱えた遺族が傍聴席から議場に一礼する写真(『読売新聞』11月20日付夕刊)が象徴するように、この法律は、2011年の栃木県鹿沼市におけるクレーン車による6人の死亡事故(運転手のてんかん発作が原因)や2012年の京都府亀岡市の児童ら10人の死傷事故(少年の無免許運転)の被害者・遺族の厳罰を求める運動(メディアによる密着報道)が強く影響している。この種の問題(重罰化、時効廃止、少年審判手続への被害者参加など)では、被害者・遺族の声に応えるという形をとることが多い。だが、ことは刑法の根本原則や刑事手続上の権利にかかわる重要な問題を含んでいる。この法律は、特定秘密保護法と比べれば、報道の扱いは極端に小さいし、刑事法の専門家や弁護士会などからの批判的意見もあまり見られなかったが、もっと慎重な検討が必要だったのではないか。

まず、今回の法律で、次の6つの場合に15年以下の懲役(死亡の場合は下限が懲役1年)が科せられることになった(2条)。すなわち、(1)アルコール・薬物による正常運転困難な状態の走行、(2)制御困難な高速走行、(3)制御技能を有しないで走行、(4)高速で走行妨害のためのわりこみや著しい接近、(5)赤信号をことさら無視した危険な高速走行、(6)通行禁止道路の高速走行により死傷事故を起こした場合、である。(1)は従来の「危険運転致死傷罪」(刑法208条の2)を吸収したものだが、(2)〜(6)はこれではカバーできず、そのつどワイドショーなどで感情的になった司会者が「ほっとけない」などと叫んでいた悪質事案があまねく条文化されていることに驚く。「悪質運転は重罰になる」という威嚇効果を狙ったとしても、15年は重い。結果的加重ということにしても、なお慎重な検討が必要だったように思う。

次に、「自動車の運転に支障を及ぼすおそれのある病気」の影響で、走行中に正常な運転が困難な状態に陥り、人を負傷させれば12年以下の懲役、死亡させれば15年以下の懲役となる(3条2項)。今回の法律ではこれが一番の目玉であり、かつ問題とされるべきところである。ここでいう病気の種類は政令で定められるが、法務省が想定しているのは、発作を伴うてんかん、統合失調症、再発性の失神、無自覚性の低血糖症、躁鬱病、重度の催眠障害という。これらの病気をもつ人は社会のなかにかなりおり、その多くが免許証を持っている。このように、病名を特定して厳罰化する規定は、先進国では例がないという(『朝日』前掲)。鹿沼市のてんかん発作による事故はあまりに悲惨だった。しかし、だからといって、病気が原因となるケースに重罰を科すことで問題は解決するのだろうか。逆に、患者に対する偏見と差別が生まれると危惧する患者団体の声も無視できない。2012年度の全交通事故の約66万5000件のうち、病気の発作・急病による事故は279件という(『朝日』前掲)。鹿沼の事故もメディアが感情移入した報道をして世間の関心をひいたが、病気の発作による事件は決して多くはない。厳罰化は疑問である。

さらに、今回の法律は、飲酒運転の摘発を免れようとする行為に対しても、12年以下の懲役を科している(4条)。これは、「過失運転致死傷アルコール等影響発覚免脱」と称される。「免脱」という言葉で、徴兵を免れようとして指を切ったりする行為が陸・海軍刑法で「従軍免脱」として処罰されたことを思い出した。飲酒運転の発覚をごまかす行為は道徳的に強く非難されるが、12年以下の懲役というのには違和感を覚える。

今回の法律によって、危険運転致死傷罪(刑法208条の2)と自動車運転過失致死傷罪(211条2項)が刑法典から削除された(附則2条)。12年前と6年前に刑法典に導入された条文が、刑法典から消える。交通事故に対しては、長きにわたって刑法211条(業務上過失致死傷)が使われてきたが、この間は上記の規定でやってきた。しかし、それが再び、新たな立法に変わるわけである。

かつては「交通戦争」と言われ、5桁の死者(ピークは1970年の16765人)を数えたこともある。その頃に比べれば、交通事故の死者数は格段に減った(2012年は4411人)。だが、悪質なケースに対する被害者・遺族の声をメディアが大きく取り上げることもあって、世論が厳罰を求める傾きが強くなった。それに呼応して厳罰化も進んできたという背景がある。その転換点は、2001年12月施行の「危険運転致死傷罪」(刑法208条の2)の新設だった。これについては、施行の半年後にこの直言でも触れた(「ある交通事故のこと」)。

「危険運転致死傷罪」は、「アルコール又は薬物の影響により正常な運転が困難な状態」が要件となるため、立証が容易ではなく、これを適用する事例は必ずしも多くはなかった。2006年8月、福岡市「海の中道大橋」で、飲酒運転の車に追突された車が海に転落し、幼児3人が死亡する悲惨な事故が起きた。このケースでは、当初は危険運転致死傷罪で懲役25年が求刑されたが、危険運転は立証できず、裁判所が訴因の変更を命令した結果、懲役7年6月を言い渡された(刑法211条と道路交通法違反)。某ニュースキャスターはこの判決に不満顔で、「日本は法治国家ですが、情治国家でもあるはずです」とコメントして、被害者・遺族のためにもっと厳罰をというメッセージを発信した。

そもそも、法益を侵害する行為が処罰されるというのが刑法の基本原則である。だが近年の刑事立法の特徴として、国民に「不安を抱かせる行為」をあまねく処罰対象にし、国民に「安心感」を与えるという傾向が指摘されている(松原芳博「国民の意識が生み出す犯罪と刑罰」『世界』2007年2月号参照)。「安心感」を演出する「象徴立法」である。法規制を根拠づける立法事実との間の具体的な関連性を欠き、実際的な効果を度外視した自己目的的な「象徴立法」により、処罰範囲の拡大と重罰化が推進されるわけである。先週成立した自動車運転死傷行為処罰法も、この系列に属するものになるだろう。

思えば2006年は「飲酒運転撲滅」キャンペーンが活発化し、公務員による「飲酒運転一回で懲戒免職」という動きが全国に広がった。しかし、どんな事情があっても飲酒運転は一回で懲戒免職という処分は、その後裁判所によって取り消されるケースが生まれている。ここは冷静になるべきだろう。

私も運転免許歴31年である。交通事故に巻き込まれた経験もある。いつ自分が交通事故の加害者になるかわからない。本当に気を引き締めたいと思う。交通事故の場合、誰もが一瞬にして、その被害者にも加害者にもなり得る。飲酒運転を繰り返し、暴走行為のあげく多くの人を死なせるというような本当に悪質なケースは残念ながら存在する。大切な人を失った遺族の気持ちを考えれば、その怒りと悲しみはいかばかりだろう。しかし、だからと言って、今回の法律のような「象徴立法」によってそうしたケースをなくすことができるだろうか。むしろ、病気の発作による事故に対する重罰化を定めたことによる副作用の方が危惧される。「被害者の権利」を報復的色合いで主張し、それにより被疑者・被告人の権利を制限するような動きに対しては、今後とも警戒を怠ってはならないだろう(直言「『おかえり』といえる社会に」)。

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