「戦死者を出す覚悟」?――自らは決して「戦場」に赴くことのない政治家の勇ましさ            2014年4月14日

誰のために死ぬか?

4月12日、大阪に2時間54分滞在した。市民団体主催の集会で講演するためである。NHKが取材にきて、当日夜8時45分のニュースで講演の一部が紹介された。同じ時刻に宇都宮市で、自民党が改憲草案をめぐる対話集会を開いたので、それと対照的な集会としてたまたま選ばれたようである。

『世界』5月号で書いたとおり、「わが国」が武力攻撃を受けてもいないのに他国を攻撃することを正当化する集団的自衛権の行使は、どんなに「限定的」であっても許されない。それを行えば、「自衛のための必要最小限度の実力だから自衛隊は合憲である」としてきた長年の政府解釈を捨てることを意味する。この解釈は、あくまでも「わが国」を「防衛」するという「個別的自衛権」の範囲内の論理操作である。私は憲法研究者として自衛隊違憲論に立つが、この『世界』5月号では、あえて政府解釈を基軸において、安保法制懇報告書(2008年)とその後の議論を内在的に検討した。安倍首相が驀進する「憲法破壊」路線を阻止するためには、憲法改正や自衛隊をめぐる立場の違いを超えた「立憲的合意」が求められているからである。

講演では、その内容に加え、集団的自衛権行使を合憲とする安倍晋三流「憲法介錯」を批判した。例えとしては品がよくないが、あえて言えば、ヤクザの親分が、隣町に住む舎弟が他の組の者に袋叩きにされたからと、その組の事務所に殴り込みをかける「ヤクザの出入り」を「集団的正当防衛権の行使」といって正当化するようなものだ。また、親分の利益が害されたからといって、害を受けていない仲間も殴り込みに加わることになりうる。もし、集団的自衛権の行使を合憲と閣議決定するならば、安倍首相は、憲法の首を落とす「憲法介錯人」になるだろう、とも。

上記はあくまで例えであって、個人は固有の権利や正当防衛権をもつが、国家は憲法に明文規定もないのにもつわけではないことは言うまでもない。

さて、集団的自衛権行使容認論では、他国から攻撃されたアメリカを「助けるため」とよくいわれるが、その他国からみれば、攻撃していない日本から「先制攻撃を受けた」ことになり、現実として日本はそのまま武力衝突の当事国になるのである。「助けるだけ」では済まず、他人の喧嘩の矢面に立つことになる。前掲『世界』5月号でも述べたが、米艦が攻撃され、自衛隊が攻撃国に対して反撃すれば、攻撃国からすれば先に攻撃をしてきたのは日本であるから、攻撃国は自衛隊に反撃し、その後は日本と攻撃国との間の武力衝突となるが、その先をどうするのか、容認論者は考えているだろうか。

骸骨

昨年、石破茂自民党幹事長は、出動命令に従わない自衛隊員に対して現在の懲役7年では軽いから、「従わなければ、その国における最高刑に死刑がある国なら死刑。無期懲役なら無期懲役。懲役300年なら300年」と、国防軍にして死刑や無期懲役などの重い罰則で服従させるようにすべきだと語った。石破氏はこの間、一貫して自衛隊の「普通の軍隊」化に向けて驀進してきた人であるが、このところ、粘着質の口調で次々と本音を突出させている。

4月5日のテレビ東京の番組で石破氏はこうも述べた。「(集団的自衛権の行使を容認した際に自衛隊が)地球の裏側まで行くことは普通は考えられないが、日本に対して非常に重大な影響を与える事態と評価されれば、完全に排除はしない」(『東京新聞』4月6日付)と。この「地球の裏側」という言葉を聞くと、昨年9月19日、自民党の安保関係合同部会で、高見沢将林官房副長官補(防衛省防衛政策局長などを歴任)が、集団的自衛権行使が認められた場合の自衛隊の活動範囲について、「『絶対、地球の裏側に行きません』という性格のものではない」と語ったことが想起される(『朝日新聞』2013年9月20日付)。

また、石破氏はその番組のなかで、アフガン戦争で集団的自衛権を行使した国の軍隊が多数の死者を出したことから「日本にその覚悟があるか」と問われて、「自衛官は危険を顧みないという誓いをして任官している。危険だから(派遣を)やめるということはあってはならない。内閣が吹っ飛ぶからやめておこうというのは政治が取るべき態度ではない。政治の覚悟の問題だ」と明言した(『朝日』『東京』4月6日付)。

「政治の覚悟」とは何か?「内閣が吹き飛ぶ」ことか。それは自衛隊員の大切な命と天秤にかけられるものなのか。集団的自衛権行使について勇ましく語る政治家たちは、自らは決して「戦場」に赴くことはない。

いま、安倍政権は「国防軍」にするための明文の憲法改正の追求(4月12日のNHKニュースが報じた「改憲案の対話集会」)と同時に、来月にも集団的自衛権の行使を合憲とする閣議決定を行おうとしている。これは、自衛隊員を現在の服務宣誓のまま、「わが国」が攻撃されていない戦闘に参加させて生命の危険にさらすことを意味する。

精神教育の教範

自衛隊に入隊するとき、必ず服務の宣誓が行われる。自衛隊法施行規則39条はその服務の宣誓について定める。宣誓の言葉は次の通りである。

「私は、我が国の平和と独立を守る自衛隊の使命を自覚し、日本国憲法及び法令を遵守し、一致団結、厳正な規律を保持し、常に徳操を養い、人格を尊重し、心身を鍛え、技能を磨き、政治的活動に関与せず、強い責任感をもつて専心職務の遂行に当たり、、もつて国民の負託にこたえることを誓います。」

傍点をふった箇所は他の公務員の服務宣誓にはない言葉である。生命の危険を確実に伴う行為は、「わが国」が攻撃されたことに対処するためのものであって、「わが国」が攻撃されていないのに「他国」のために身を危険にさらすことは、この宣誓から当然には出て来ない。イラク派遣(私は徹底的に批判するが)までは、ギリギリ現行の政府解釈の枠内での措置として行われたものであったが、集団的自衛権の行使を合憲とした上で行われる「戦闘行動をする多国籍軍への支援活動」(武力行使と完全一体化した活動)は、これまでの服務宣誓で命令することは許されないだろう。その意味で言えば、集団的自衛権の行使に基づく活動を拒否することはできるかというシビアな論点が出てくる。ドイツでは、イラク戦争を国際法違反の侵略戦争として、命令を拒否する軍人があらわれたことはすでに述べた(直言「ドイツ軍少佐からの白バラ――軍人の抗命権・抗命義務」)。もし、安倍政権が集団的自衛権の行使の合憲解釈に突き進むならば、服務の宣誓のやり直しが必要になる。それは、自衛隊内における精神教育や士気にも連動するだろう。私は『世界』5月号拙稿の結びで、次のように書いた。

…もし、自衛隊が海外での武力行使を「普通に」行える軍隊になったならば、日の丸にくるまれた柩が羽田空港に到着する可能性は確実に高まる。戦後半世紀もの間、自衛官が海外で「戦死」することは想定されてこなかった。この国は憲法九条で「戦争をしない国」というのが国是であり、自衛隊員は「わが国を防衛するために」、「危険を顧みず」「身をもって責務の完遂に努め」ると宣誓したはずである(自衛隊法施行規則39条)。 実は、1954年7月1日を期して保安隊から自衛隊への切替えが行われたとき、宣誓のやり直しが6月21一日に全国の部隊で一斉に行われたところ、保安隊から7300人、警備隊から10人、保安大学校から6名が宣誓書に署名しなかった(水島『武力な平和――日本国憲法の構想力』岩波書店、1997年参照)。もっぱら治安維持の任務から軍事的色彩の濃い「防衛」への任務変更に対する躊躇いや抵抗感が存在したのである。いま、集団的自衛権の行使を合憲化して、自衛隊を海外での武力行使に参加させるならば、隊員に対して宣誓のやり直しが必要だろう

第二次世界大戦の同じ「戦敗国」としての、また、海外派遣「先輩国」としてのドイツが、NATO加盟国として集団的自衛権を行使し、アフガニスタンで「戦死者」を出し、またドイツ軍大佐の命令で多数の民間人を殺傷するという悲劇を体験していることを安倍首相はご存じだろうか(直言「何のための「戦死」か――アフガン戦争9年目の現実」)。日本も海外での武力行使を許せば、自衛隊員の死者を出し、自衛隊員が人を殺すことになる。

ドイツ連邦軍は2014年1月現在、103人が海外派遣で死亡している。アフガンでの活動では55人が死亡し、そのうちの35人は「外からの力」によるもの、つまり戦闘による死亡である(連邦国防省のサイトより)。2008年10月24日、フランツ・ヨーゼフ・ユンク国防相(当時)は、戦後ドイツ史上初めて「“戦死した”軍人」(“gefallene”soldaten)という言葉を公式に使用した(Deutsche Welle vom 24. 10. 2008)。

冒頭の写真はアフガンから遺体となってケルン・ボン空港にもどってきたドイツ連邦軍の兵士の柩である。見出しは「何のために死すか」。自衛隊でも、「何のために死すか」という究極の覚悟をもたせるための精神教育が行われてきた。14年ほど前、自衛隊がいかなる「精神的基盤」をもち、その統合要素は何かについて分析したことがある(拙稿「軍隊における『精神教育』」〔杉原泰雄他編『平和と国際協調の憲法学』勁草書房、1990年。水島朝穂著『現代軍事法制の研究』日本評論社、1995年に所収)。

精神教育解説

戦前の軍隊は「天皇の軍隊」だったが、自衛隊は天皇との関係は公的には回避してきた。古い資料だが、1962年の陸上幕僚監部『精神教育(陸士本技用・陸士練成教育用)を見ても、天皇という言葉は出て来ない。その代わり、「民族の優秀性」や「理性的愛国心」が強調され、反全体主義の体系的教育がプログラムされている。自衛隊と民主主義の関係も取り上げられている。また、部内の別の研究では、次のような指摘がある。「最も現実性に富む方法は天皇も国民も内含するところの『国』…理論的にいえば日本国の『意志』(現存国民に限定されず)の理念が、権威の根拠であるとする方法であろう。忠誠の志向対象はこのような意味での『国』となる。…」(前掲拙稿[『現代軍事法制の研究』104-105頁]参照)。

その後、特に90年代以降、自衛隊にさまざまな海外派遣任務が課せられてきた。海外派遣を「本来任務」に滑り込ませる自衛隊法改正も行われた(直言「海外出動『本来任務化』の意味」)。しかし、いまはまだ一人も死んでおらず、一人も殺していない。紛争解決の手段として武力を使わないと誓ってからまだほんの70年足らず。日本人のその決定には並々ならぬ、それこそ「覚悟」があったはずである。日本が攻められてもいないのに、(国防軍(「国益防衛軍」)や「他衛隊」になって、拡大解釈された「国益」を守るために、自衛隊員が命を危険にさらすようなことを許してはならない。


《付記》
安倍首相らが砂川事件最高裁判決(1959年12月16日)を使って集団的自衛権行使を正当化する乱暴な主張を展開していることについては、4月17日(木)午前8時〜9時30分のテレビ朝日「モーニングバード」の「そもそも総研」に出演して批判した。

《付記2》
本稿の完成後、時事通信の「スクープ」と思われる記事に接した。電子版4月13日5時半付の記事「内閣法制局、行使容認へ転換=『放置なら侵攻』に厳格限定――集団的自衛権で素案」によれば、内閣法制局が内部検討を進め、素案をまとめたという。必要最小限度」の自衛権に、集団的自衛権の一部が含まれるとの見解を打ち出し、ある国が日本の近隣国を攻撃、占領しようとしており、放置すれば日本も侵攻されることが明白な場合などに行使を限定的に認めるというものである。これまでの政府解釈とはまったく整合しない。安倍政権の「人治主義」(長官人事)と「無理屈」の突出が劇的にあらわれたものと言えよう。

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