「収容所群島」とグラーク歴史博物館――独ソ開戦75周年(3・完)
«Архипелаг ГУЛАГ» и Музей истории ГУЛАГа - 75 лет с начала советско-германской войны (3)
2016年8月8日


写真1

レムリンの城壁と望楼は、テレビや映画で見慣れた風景である。スパスカヤ塔は公用車が出入りする。政治家や官僚たちが、覆面パトカーのようなブルーの点滅灯をつけサイレンをならして通りすぎる。ちょっと偉くなると前後にパトカーがつく。一般の車を押しのけて走るあたり、ソ連時代の悪弊は変わらないようだ。冒頭の写真は、レーニンも執務したクレムリン内の元老院(現在・ロシア連邦大統領府)である。ロシア国旗が掲揚されている時はプーチン大統領が執務しているといわれるが、本当のところはわからない。

クレムリン内の聖堂群の一つ、アルハンゲルスキー聖堂に入る。ピョートル大帝がサンクトペテルブルクに首都を移すまでの歴代皇帝・皇族の墓所になっている。48もの棺が、あまり広くはないスペースに無造作に並べられている。棺に手を触れている観光客もいる。ベルリン大聖堂の地下霊廟(ホーエンツォレルン王家墓所)はもっと広く、厳粛だった。クレムリンの権力者が、社会主義革命後も皇帝の墓所をクレムリン内に抱え込み続けたのは、その伝統的「権威」を支配に利用したかったからなのだろうか。

マネージ広場から「赤の広場」にかけて、ゆるやかな登り坂になっている。戦車などの大行進が行われる際に進入口になる場所だ。警察機動隊のバス2台が入口付近に停まっているが(写真)、全体として威圧感を与えないようなソフト警備路線で、女性警察官なども配置している。レーニン廟は少し並んで入ることができた(写真)。厚化粧のレーニンが横たわっていた。2人の警備兵が厳しい顔でにらむので、みな足早に外に出る。外には歴代党幹部の墓がある。スターリンの人気が高く、花束が一番多いのには驚いた。中央アジア系の女性が記念撮影をしていた(写真)。ここではスターリンもミーハーの対象になるようだ。

写真5

そのまま旧KGB本部(現ロシア連邦保安庁〔FSB〕)に向かう(右写真)。街の真ん中にあり、外見上は普通のビルである。アンドロポフ元長官のレリーフ(写真)が壁に掲げられているだけで、それ以外には何の表記もない。しかし、これが何のビルなのか、誰もがみんな知っている。周辺のビルもFSBが使っているようで、それらしき車が出入りするのは向かいのビルだった。あまりうろついて怪しまれるのも嫌なので(すでにこの建物だけ撮影しているから十分怪しいが)、早々にモスクワ川のクルーズ観光に向かう。

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ロシア国防省と陸軍参謀本部の建物は正面からは撮影しにくいが、モスクワ川からだと全体が撮り放題である(左写真)。そもそも3泊したホテルの部屋から見える景色が、「スターリン・クラシック様式」の外務省ビル(27階建て)だから(写真)、旅愁も何もあったものではない(笑)。観光船から見える風景が「文化人アパート」「ウクライナホテル」「モスクワ大学」「芸術家アパート」と、外務省ビルと同じ1950年代のスターリン・クラシック様式なので、何とも威圧感がある。

息抜きに民芸品博物館(正式名称は「全ロシア装飾工芸・民族芸術博物館」)に行った。陶磁器や漆器はもちろん、家具やサモワール(給茶器)、ソリまで展示されている。その独特の色合いと「大きさ」が印象的だった。時代別に見てきて、社会主義時代の過度な「リアリズム」にやや辟易したところで、続く「現代」のコーナーでは、一昔前にもどったかと錯覚するような作品が並び、なぜかホッとした。プレートには「伝統と継承」とあった。「全ロシア」と銘打つだけあって、極東や少数民族に関するものも展示されている。そのなかに奇妙な陶磁器を見つけた。民族衣装をまとった人たちが何かの文書を見ながら話し合っている(写真)。説明書きには、文具セット「スターリン憲法の討議」(エヌ・ヤ・ダンコ、レニングラード、1937年)とある(写真)。1936年のスターリン憲法はその126条で、共産党を「勤労者の前衛部隊であり、かつ勤労者のすべての社会的ならびに国家的組織の指導的中核をなす」と規定し、共産党一党独裁に憲法上の根拠を与えたものとされている。ただ、旧ソ連では、重要な法案は事前に公表し、職場などで議論させる「全人民討議」という手法が用いられていた。もちろんそれは「民主的」な議論がされたというアリバイにすぎなかったが。この陶磁器は、中央アジアのさまざまな民族の人たちも、このように憲法草案を事前に討議したのだということを示す宣伝的な狙いをこめたものなのかもしれない。

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民芸品博物館から歩いて10分とかからない閑静な住宅街に、何とも不気味な場所がある。窓がすべて塞がれた異様な風体の建物、「グラーク歴史博物館」である(入口写真)。アレクサンドル・ソルジェニーツィンの著書『収容所群島』は、ロシア語で「アルヒペラーク・グラーク」である。ここで「収容所」と訳されている「グラーク」は、「矯正労働収容所総管理局」の頭字語である。ソ連の内務機関の下で政治犯などを収容する強制収容所を管理した国家機関であるとともに、『収容所群島』という訳語にも見られる通り、当該機関によって管理された収容所を指す言葉としても用いられた。

この博物館は、旧ソ連時代の政治犯に対する処遇の記憶を現在に伝えるために、2004年に開館。2015年10月にこの場所に移転した。それまでは、ボリショイ劇場裏手のペトロフカ通り16番地にあった。博物館の公式サイトによれば、著名な歴史家でかつての異論派であったアントン・アントノフ=オフセンコにより、モスクワの市立博物館として2001年に設立された。彼自身も「人民の敵」の子どもとしてスターリンの収容所で暮らした経験を持つ。2012年のモスクワ市政府の決定に基づき、現在の地に移転。面積は4倍に拡大した。公式サイトによれば、「その基礎には病的な出来事が横たわり、その意味付けに困難をともなう記憶に関する博物館」として位置づけられている。この国の「過去の克服」に関わる中心的な場所の一つといえるだろう。日本では、ネットでも、ガイドブックでもほとんど言及されていない。展示物は、ソ連最高裁軍事部による政治犯の死刑判決の実態、収容所の生活実態、政治犯収容所の分布、被害者の証言の映像記録などである。

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内部は非常に暗い。部分照明を効果的に使っている。収容所のドアは底無しの恐怖への入口に見える。旧ソ連各地の収容所の位置を示す地図が掲げられている(写真)。旧ソ連領土内において存在した収容所の数は476にのぼる。そのほとんどすべてが、いくつかの支部を持っており、そうした支部は、しばしばかなりの規模のものだった。毎年、数十万の囚人が新たにグラークに送られ、囚人の数は、最盛期の1950年夏に280万人に達した。グラークに収容された者の数は2000万人以上。その5人に1人が、いわゆる「反革命罪」によるものであった。「収容所群島」という呼称は誇張ではない。

ガリーナ・イヴァーノヴァ『グラークの歴史―1918年から1958年』(2015年)によれば、グラークのひな型が形成された起点は1918年である。まさにレーニン時代である。「レーニンは正しかったが、スターリンが間違ったのだ」式のレーニン神話は通用しない。注目すべきは、レーニンのソビエト権力は、「積極的な階級的敵対者」を隔離するため、第一次世界大戦の戦争捕虜収容所を活用したことである。これを発案したのは、後にNKVD(内部人民委員部)、KGBと連なる組織の元祖チェーカー(反革命・サボタージュ取締全ロシア非常委員会)のトップ、ジェルジンスキーである。

政治犯収容所が本格化したのは1920年代末からで、グラークの形成は、事実上、収容所制度の「第2の誕生」(戦争捕虜収容所とその活用)ともいえるものだったが、それは、強行的な工業化や暴力的な農業集団化の下で開始され、推進されていった。無理やり土地をとりあげれば抵抗がある。「積極的な階級的敵対者」を隔離する。そうやって「人為的な階級闘争の激化」のなかで収容所は拡大していったのである。ソ連経済の発展は収容所の増設を伴った、という皮肉な構造がここにある。

そもそもグラークはイヴァーノヴァによれば、「矯正装置」ではなく「抑圧装置」であった。「…収容所は、伝統的な自由剥奪地〔刑事施設〕とは異なり、初めから階級的敵対分子を鎮圧する機関として設置されたのであって、決して、教育目的を持った矯正労働施設として設置されたのではなかった。」

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特に背筋が凍るのは、共産党政治局員が署名した、政治犯に死刑判決を宣告するよう命じる命令書の数である。トップはスターリンと思いきや、モロトフ首相の方がずっと多い。しかし、実際は政治局まであがらずに下部で処理されたものもあっただろう。ソ連最高裁軍事部により、あらかじめ用意された判決文に基づいて、大量の銃殺刑を宣告する判決が言い渡されていたという事実も、この博物館に展示されていた。

さらに、収容所には、裁判所により有罪とされた者だけでなく、裁判外手続で有罪とされた者も送られた。収容所の刑期は3年以上。すべての囚人は強制労働を強いられた。「ソビエト収容所複合体は、可動的で事実上無償の労働力という資源が無尽蔵にあることによって、すでに1930年代初めには、ソビエト経済を発展させる上での重要なファクターになっていた。グラークの『労働フォンド』は、絶えず増大し、収容所経済が重大な経済的課題を解決することを可能とした。」

また、グラークは、事実上法律の管轄外にあり、内部は独自のルールが支配していた。収容所の規律を維持し、収容者に恐怖心を抱かせるために機能したのが、収容所特別裁判所による残酷な懲罰的実務であった。収容所特別裁判所は、非公開で活動し、その手続は刑事手続法を極めて重大に侵害するものであり、懲罰実務は、スターリン体制の抑圧政策の目的および任務に奉仕するものだった。収容所特別裁判所が存在した10年に満たない期間の間に、約20万人に対して有罪判決が言い渡され、その対象は、囚人のおよそ80%にのぼったという。

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博物館のなかは、各階に段差を設けたりして、暗いなかに空間的な広がりを演出している。そのなかで、白く浮きでる照明で何かを示すコーナーがあった。見学者が一つひとつをのぞきこんでいる。私も行ってみると、そこには収容者の生活があった。手紙やさまざまな生活用品が展示されている。なかには粗末な手製のスプーンもある(写真)。具のない水のように薄いスープを、これですくって飲んだのだろうか。布製の裁縫箱やレース編みの靴(写真)、うさぎやカタツムリなどを描いた刺繍もある(写真)。これを見ていると、どんな過酷な境遇や状況のもとでも創造的な仕事をしてしまう「人間の尊厳」を感ずる。

「反革命分子」あるいは「人民の敵」という烙印(スティグマ)は、旧ソ連においては命に関わる問題であった。心よく思っていない人物を「人民の敵」として密告し、あるいは「反革命分子」として告発することで、どれだけの無辜の人々が自由と生活と家族を奪われ、命を失っていったか。独ソ戦の戦場での死だけでなく、収容所のなかで「人民の敵」「反革命分子」の烙印を押されたままで死んでいく。そうしたロシアの歴史的負債である「グラークの過去」について公然と議論や研究ができるようになったのは、1989年のゴルバチョフ時代からだった。

1989年、ソ連最高会議幹部会令「30年代から40年代および50年代初頭の時期に生じた抑圧の犠牲者に対する正義の回復措置について」が出された。この幹部会令は、対象となる時期がスターリン期に限定され、抑圧の性格が政治的であることが明確にされていないという限界はあったものの、抑圧や収容所に関するテーマが禁止の対象ではなくなったことを社会に示す重要なシグナルとなった。この年の夏には、共産党政治局がソ連においてソルジェニーツィンの『収容所群島』を出版することを許可した。

ソ連邦の崩壊後、1992年6月23日のロシア連邦大統領令658号「大規模抑圧および人権侵害の根拠となった法令およびその他の文書からの機密扱いの印章の削除について」は画期的だった。これにより、研究者は過去の「粛清」や収容所に関する文書を調べ、研究することが一般的に可能となったからである。ただ、実際には、依然としてアクセスには重大な制限があるという。特にスターリン支持者が依然として存在し、グラーク歴史博物館を批判している。彼らは、この博物館の開館とその活動に対して、「ロシアを破壊する道具」などといって、政治的抑圧の犠牲者に対する記憶の維持に反対しているという。

博物館のサイトには、「博物館の常設展示の主たる任務の一つが、歴史的記憶を保存するというテーマに光を当てるとともに、過去を解釈するだけでなく、明日の任務を考えることに人々の注意を向けることにある」とある。ロシアに未来があるとすれば、苛烈な過去と誠実に向き合うしかないということだろう。博物館の出口近くにモニュメントがあり、そこにロシア語と英語で象徴的な言葉が書かれている(写真)。その一つは、「過去の再来を明日防ぐために、我々は今日何をなすべきか?」(What should we do today in order to prevent the return of the past tomorrow?)である。

8月の最初の1週間、私はドレスデンを起点として東部ドイツ各地を取材する。その際、17年ぶりに訪れるのがヴァイマル近郊のブーヘンヴァルト強制収容所である。ナチスの強制収容所が解放されたあと、ここは直ちにソ連内務人民委員部の「第2特別収容所」(Speziallager 2)として活用された。

ソ連占領軍の「敵対分子」とされた人々が収容され、旧ソ連刑法58条(反革命罪)がドイツ人にも適用された。旧東地区で、共産党との「合併」(社会主義統一党[SED]の結成)に反対した社民党幹部も収容された。戦後28455人が収容され、5年間で7113人が死んだ。薄暗い森のなかに、2mほどのスチール製の棒が無数に立っており、それが大量埋葬地であると知った時のショックは大きかった。ナチスからソビエトへ。「収容所の連続」は1950年代まで続いた。旧東ドイツにおける抑圧の手法と構造(直言「壁とともに去らぬ」――旧東独の傷口」)は、「グラーク」のそれを模倣していた節がある。また、15年前にカンボジアのポル・ポト政権の強制収容所に行ったことがあるが、そのなかで、ソ連内務人民委員部(NKVD)の「32種類の拷問」を想起した(直言「大虐殺の傷痕(2)カンボジア・ラオスの旅(2)」)。

日本はいま、何ともいえない異様な空気に包まれている。自民党本部で開かれた都知事選の集会で、石原慎太郎元知事は野党統一候補に対して、「売国奴だよ、こいつは!」と言い放ったという(7月26日)。「国賊」、「非国民」・・・。ネットには徹底した排除の論理と「言葉の荒野」が広がっている。これが政治権力と結びつかない保証はない。

連載第1回:2016年7月25日付「スターリングラードの「ヒロシマ通り」――独ソ開戦75周年(1)」
“Улица Хиросимы” в Сталинграде - 75 лет с начала советско-германской войны (1)
連載第2回:2016年8月1日付「ロシア大平原の戦地「塹壕のマドンナ」の現場 へ――独ソ開戦75周年(2)」
На землю, где была нарисована «Сталинградская Мадонна» - 75 лет с начала советско-германской войны (2)
連載第3回:現在閲覧中
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