菅原文太さんのこと――久田栄正没後25年に            2014年12月8日

菅原文太氏・写真1

の夏、沖縄の辺野古にいる時に、俳優で絵本作家の米倉斉加年さん急逝のメールが届いた。11月18日には俳優の高倉健さんの死を知らせる号外(写真)が出て、それをゼミのOBが郵送してくれたが、朝日新聞社が号外を出したことに驚いた。

もっと活躍してほしいと思う人びとが、次々に亡くなっていく。つい1年前には辻井喬さんと品川正治さんが亡くなっている。何とも寂しい限りである。そう思っていたところに、12月1日午後、俳優の菅原文太さんが亡くなったことを知らせるメールが届いた。映画「仁義なき戦い」をはじめ、菅原さんの代表作品については、正直ファンというわけではなかった。しかし、晩年はテレビドラマなどでその渋い演技に接して、遅まきながらファンになっていた。また、菅原さんと、憲法学者の樋口陽一さんと作家の井上ひさしさんが仙台一高の同窓ということで、3人の座談会なども興味深く拝見していた。近年、菅原さんは社会的活動に積極的にとりくみ、八ヶ岳南麓の私の仕事場からあまり遠くないところに農業生産法人を立ち上げ、無農薬有機農業にこだわった主張を展開された。農作業をされている姿や、八ヶ岳を背後に軽トラックを走らせるテレビCM(YouTube)なども、同じ北杜市の住人として親近感をもって眺めていた。菅原さんは私にとって、そんな存在だった。

ところが、昨年8月、突然、菅原さんがレギュラーをされているニッポン放送の「菅原文太 日本人の底力」のディレクターから出演依頼のメールが届いたのである。そこに、「俳優・菅原文太が、各界で“地に足をつけた生き方をしている”ゲストをお迎えし、対談を通して、日本の今あるべき姿を探って行く2003年4月から続いている対談番組」という番組概要の紹介があった。「地に足をつけた生き方をしている」として、自治体の首長や作家、歌手、元プロ野球選手などさまざまな分野の方々が呼ばれている(出演者一覧と過去の放送分へのリンク)。菅原さんからのオファーだそうで大変光栄に思うとともに、正直、「あの菅原文太と直接話せる」というミーハー的な興奮も覚えた。ゼミの北海道合宿からもどり、すぐに北九州と広島の連続講演を終えた翌日、しかも午前中はTBS「報道特集」の収録が予定されていた日の昼12時からという、私にはきつい日程だったが、オファーを受けることにした。

民放のラジオを聴かない私は、この番組の存在をそれまでまったく知らなかった。ホームページで検索すると、けっこう硬派の番組であることがわかった。放送時間は、毎週日曜日の午前5時30分から6時まで。かつて私がNHKラジオ第一放送「新聞を読んで」のレギュラーをやっていたときも、放送時間は最終的に日曜の午前5時18分だったから、日曜早朝といわれても驚かなかった。この時間にラジオを聴いてくださる方々(学生はまずいない)は比較的年齢が高く、社会的関心も高いのは経験済みだからである

菅原文太氏・写真2

2013年9月2日、大学の研究室でテレビ収録を終えて、有楽町のニッポン放送に向かう。スタジオで菅原さんに挨拶する。やさしい笑みを浮かべながらも鋭い眼光、低い声。「菅原文太」のオーラに圧倒された。マイクの前に座り、低い声で、昨今の憲法問題についてダイレクトに質問をされる。安倍晋三首相が集団的自衛権行使容認のために政府解釈を強引に変更しようと、法制局長官に外務官僚をすえるという超異例の人事を行ったばかりだったため、菅原さんの質問はそこに集中した。「なぜそういうことをするのか」「その背景に何があるのか」。低い声で、ゆっくり、じっくり迫ってくる。私は話したいことが山のようにあったから、たくさんのことをかなりの早口で話してしまった。菅原さんは私の目をじっと見据えて、「うーん、そうかぁ」「なるほど」と太く低い声で共感の相槌をうつので、引き込まれるように話してしまった。

「政治家の質が下がっているのはなぜなんでしょうか」という質問から、私が昔の政治家はよく手紙を書いたこと、いまはスマホ、ツイッターなどを駆使して、すごく言葉が軽くなったことを語った。緩慢なる思考力の低下(「スマートなアホ化」)について、ネット時代に生まれたいまの学生たちに万年筆で手紙を書くことをすすめている話など対談を続けていくと、「うーん、おもしろい。先生またやりましょう」という話になった。気づくと1時間近く話し続けていた。これを25分に編集するのだろうと思って話していたのだが、菅原さんは少し考えてから、突然、「先生、この話、おもしろいから2回分にしましょう」と提案してきた。私はびっくりした。「私の番組ですから、好きなようにできます」といって微笑み、調整室にいる担当ディレクターの方を見た。ディレクターは黙って頷いた。「では、終わりのところと、頭のところをお願いします」といって、「今日もよろしくお願いします」「どうぞよろしく」というような冒頭の挨拶を追加で収録した。当初の打ち合わせにない、2回連続の出演ということになってしまった。同じ服装なので、テレビではあり得ないことだが、「新聞を読んで」の14年間では、収録のときにセーター姿でスタジオ入りしたこともあるから、「姿が見えない」ラジオは、こういうときに便利である。

放送は9月29日と10月6日の午前5時30分からそれぞれ25分間だった(サイト)。私は両日とも東京にいなかったので、ラジオで聴くことはなかった。担当ディレクターからCDが送られてきたが、自分の声を自分で聴くのは虫酸が走るので、そのまま資料の棚に置いたままにしておいた。ところが、菅原さんの急逝ということで、昨日、そのCDを出してきて、初めて聴いてみた。びっくりした。菅原さんの鋭い質問や突っ込みの部分はカットされていて、私が話したことがほとんどそのまま放送されていた。いまとなっては、あの菅原さんの鋭い指摘や政治家に対する厳しい批判を残しておいた方が価値があったのに、と思った。

『戦争とたたかう』

収録後の雑談のなかで、私は、拙著『戦争とたたかう――憲法学者・久田栄正のルソン戦体験』(岩波現代文庫)を菅原さんに謹呈した。大変喜んでくださり、是非読ませていただきたいといってくださった。ひとしきり戦争体験の話が続く。そして、スタジオ出口のところで、「是非また来てください」「ええ、喜んで」といって握手をしてお別れしたのが最後になった。12時にスタジオ入りしてから1時間半の濃密な時間。まさに「出会いの最大瞬間風速」を感じた。

ところで、菅原さんに差し上げた『戦争とたたかう』の久田栄正氏が亡くなってから、今週の土曜日で25年になる。「ベルリンの壁」崩壊の約1カ月後、1989年12月13日(水)、久田氏は74歳で亡くなった。その没後10年の日にドイツ・ボンで追悼の文章を書いた。もともと私の研究の出発点は憲法9条問題ではなかった。いまのような研究者になる決定的な契機は、30歳のとき、久田氏との出会いだった(「ニッポンの論客・水島朝穂」『論座』〔朝日新聞社〕2005年1月号))。

久田氏が亡くなったときの内閣は海部俊樹内閣だった。それから25年で15人の首相が入れ代わった。私は安倍第二次政権ほど危険な政権はないと思う。それは、武力行使に対する抑制がスッポリとなくなり、現行憲法のもとですでに「心は国防軍」という点にあらわれている。憲法や立憲主義についても「傲慢無知」と「厚顔無知」で蹴散らす勢いである。

菅原文太さんは、こうした危うい日本の状況に対して、近年、積極的に発言を続けてきた。「3.11」のあとは「命よりカネ優先だ」と憤って脱原発を宣言し、2012年には消費社会を見つめ直す運動体「いのちの党」の発起人となった。明後日施行される特定秘密保護法についても、集団的自衛権行使の問題でも「先の戦争の片りんが見える」と反対した(『毎日新聞』12月2日付参照)。今年2月の東京都知事選挙では、脱原発を訴える細川護煕元首相を支持する行動をとった。私も「対極ではなく、大局をみた判断が求められる」と指摘した(直言「垂直の「ねじれ」をつくれるか――東京都知事選挙」)。また、11月の沖縄県知事選挙では、菅原さんは、「オール沖縄」の翁長雄志元那覇市長を支持するために沖縄入りし、自らマイクをとった。

今日は真珠湾攻撃から73周年である。あと1週間たらずで総選挙の結果が出る。77年前の「食い逃げ解散」(林銑十郎内閣)と同様、政権の力を強めるためだけの不純な解散と総選挙である。これに国民がどのような判断を下すか。77年前のように大政翼賛会につながる結果に再びなるのか。それとも、暴走政権に少しでもストップをかけることができるか。今回の総選挙は、政策や政党を選ぶ選挙でも、政権選択の選挙でもない。立憲主義を破壊する戦後政治のなかで最も危険な政権の暴走に歯止めをかける選挙である。「止める」ための選択に、政党も個人もない。

小選挙区制に傾いた「小選挙区比例代表偏立制」という最悪の選挙制度のもとで、国民の賢慮が作動するとすれば、比例区では支持できそうな政党に入れるとしても、小選挙区では「非安倍」の一番当選しそうな候補者に入れるしかないだろう。防波堤をつくるには必ずしも高級な土である必要はない。まともな政治は、「壊憲」に対する防波堤をつくってから考えることである。

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