「虐殺」の現場を歩く――南京の旅(2)
2019年10月21日

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学での講演や学会報告の合間に、「南京大虐殺」に関係する場所を見てまわった。地下鉄やタクシーを使ったが、できる限り徒歩にした。長江(揚子江)沿いには、目立たない小さな慰霊碑もあった。3日間で31キロ歩いた。なお、「中国建国70周年」をめぐる話は、前回(「南京の旅(1)」)をお読みいただきたい。

滞在2日目、大学での講演は午前中で終わったので、午後から南京の中心部をまわった。14世紀に建設された南京城の城壁は多くの戦乱で破壊されてきたが、1937年の日本軍との戦闘はとりわけ激しかった。戦後、城壁の修復が進み、3分の2くらいまで復元されてきたという。中華門のところから城壁に登った(写真)。さらに、1937年12月17日、南京を攻略した松井石根・中支方面軍司令官が馬で入城してくる映像で有名な中山門にも行った。同行の望月穂貴君(法学学術院助手)が城壁の入口の管理事務所の女性に、どの部分が日本軍による破壊かを聞いたところ、わざわざ外に出てきて、日本軍の砲爆撃によって破壊された箇所を教えてくれた。「ここからここまで、ここも、ここも」と。よくみると、使われている石によって修復後かどうかが差別化できる。

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滞在3日目、朝から終日、南京虐殺の現場めぐりにあてた。朝一番で「南京大虐殺記念館」(侵華日軍南京大屠殺遭難同胞紀念館)に向かう。地下鉄2号線「雲錦路」駅からすぐのところにある。中国各地からグループできた人々でけっこう混雑していた。無料なのでチケットを買う手間はかからないが、手荷物検査に列ができている。日本人のグループはいなくて、私が洪驥君にちょっと声をかけただけで、前に並んでいた人たちがエッという顔で振り向く。ここでは日本語は特別な響きがあると自覚し、できるだけ黙って歩くことにした。日本人のグループには、ここにいる間、一組も出会わなかった。パンフレットを入手しようとしたが、どこにもない。チラシ一つもらえない。洪君が「観光スポットなのにパンフはないのですか」と聞いてくれたが、館員は「ここは観光スポットではない」と怒った表情でこたえた。中国共産党は、ここを「第1次愛国主義教育模範基地」に指定している。

正面に「遭難者 300000」という数字が掲げられ、中国語の次は日本語、ハングル、ロシア語と、各国語で続く。同館の至る所に「30万人」とあり、「1937.12.13―1938.1」という期間が掲げられている。中国共産党の公式決定で、南京攻略戦で南京が陥落して以降の約40日間で、捕虜や城内の市民30万人を日本軍が殺害したということを打ち出している。

展示の仕方については、広島や長崎、沖縄の記念館と違い、写真や文章が中心で、当事者のさまざまな「グッズ」と写真などを組み合わせた展示を期待していただけに、ちょっと意外だった。南京城攻防戦のジオラマもあったが、モスクワやヴォルゴグラード(旧スターリングラード)の戦争博物館の大ジオラマと比較するのは酷だろう。解説パンフもなく、もっぱら文字や写真で確認にしていくのも、すでに学校や職場、地域で半ば公的な「学習会」を繰り返してきているからかもしれない。この施設の国家的位置づけに関連しているが、外国人観光客にも十分理解され、その心に訴えかけることのできる普遍的な展示の仕方の工夫は将来の課題だろうか。

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それでも印象的だったのは、メモリアルホールの展示の仕方である。手前に多数の名簿が天井までびっしり積み上げてあって(写真)、その先に老若男女の無数の顔写真がびっしり貼られ、暗い照明のなかでゆっくりと、一人ひとりの名前が読み上げられていく。30万という数字は正面に掲げられてはいるが、そこには、一人ひとりの生きた南京市民がいたのだ。それを一人ひとりの個人の名前として扱う。これは胸に迫る。

少し先には、「30の家族」というコーナーがある。表札のように、30戸分の名前が正面に表示され、ここでもゆっくりと、家族ごとに名前が読み上げられていく。「30万人のなかの30家族」というメッセージなのだろう。それだけ無数の平和な家庭が破壊されたということを象徴させようという手法だろう。個人の命を奪い、家庭を破壊したという意味で、この展示も印象的だった。

ここで最も衝撃的な場所は、虐殺遺体を大量埋葬した「万人坑」から発掘された人骨が展示されているところだろう。冒頭の写真の右側もそれである。人間の形のままの人骨もある。小さな子どものものもあって、何ともいえない重い気持ちになる。滞在4日目に学会報告を行ったが、その午後の空き時間に、私一人でこの記念館を訪れた。前日よりも人が少なく、違った発見もあった。「万人坑」のところでは私一人だった。

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記念館内のあまり大きくない売店には、南京虐殺関係の書籍が並べられているが、ほとんどの人は通りすぎていく。私は端から見ていったが、英語版を入手したが、各国語版を揃えるまでにはなっていなかった。南京虐殺関係の公的な参考書(『南京大虐殺遭難者国家公式追悼読本』)を学齢別に購入した。「小学生版」(タイトル:血と炎の記憶)には、南京事件でひどい目にあった人たちへの聞き書きが多く、性的暴行については、小学生であることを考慮して、直接には出て来ない。「初中版」(=中学生版)になると、「歴史の真相」というタイトルで、後述するヨーン・ラーベも登場する。戦犯裁判なども詳しく書かれている。小学生版にはない、性的暴行についても1章をさいている。「高中版」(=高校生版)(タイトル:警告と思考)を見ると、日本における南京虐殺否定論への反論もスペースをとってある。

記念館を出てしばらく歩くと、軍関係の施設があった。門の両側に兵士が自動小銃をもって立っている。写真禁止の立て札。一瞬、写真を撮ろうとしても無理だろうと思った瞬間、「写真撮るな」の大声とともに、警備兵が自動小銃をもって歩道の方に走ってきた。一人の中国人がスマホで入口を撮影していたらしい。兵士に促されて、スマホの画面から完全に削除させられていた。監視カメラもすごいが、公道を通る人々を直接にらみつけている兵士の目つきの鋭さもすごい。「軍」が社会を威嚇する社会のありようを象徴していた。なお、透明のボックスに直立不動で立つ兵士の頭のところにクーラーがついている。ボックスのなかは暑くなるので、熱中症を避けるための配慮だろう。

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地下鉄に乗って中心部の珠江路へ。交差点のすぐ近くに、「ラーベの家」がある。ヨーン・ラーベ(英語読みはジョン・ラーベ)。ドイツの重工業会社、ジーメンスの南京支社長だった。日本軍による虐殺が始まると、南京市民を旧金陵大学(現・南京大学)構内の邸宅にかくまった。ナチス党員であることをフルに活用し、ナチスの旗を日本軍に示して、中国人を保護しようとした。ラーベ邸は南京にできた25の難民キャンプの1つとなり、600人以上を救うことになった。「南京のシンドラー」といわれている。映画にもなった。邸宅に入ると、ドイツ人が市民の命を救った物語として描かれ、ドイツ・中国友好のいろいろな企画が展示されている。歴代大統領やメルケル首相もここを訪れている。一つの部屋で、ジーメンス社の事業を紹介するパネルがあって、抜け目なく宣伝している。なお、この邸宅の入口近くの壁には、南京のすべての大学の「平和学習基地」のプレートが掲げてある。教育プログラムにここの見学が含まれているのだろう。

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地下鉄3号線「上元門」駅で下車し、長江に近い幕府山の近くまで行く。この周辺で捕虜の大量虐殺が行われていた。虐殺の慰霊碑が道路際に立っていた(右側の碑文の写真)。続けてタクシーを使って、下関駅(現・南京西駅)に着いた。当駅は史跡であり、現在は列車の発着はない。タクシーの運転手には「この辺は観光スポットなんてないよ」と言われた。周辺は再開発中のようで、人通りは少ない。

この下関周辺でも第16師団による捕虜の大量虐殺が行われていた。師団長の中島今朝吾中将は、12月13日の日記に、「一、大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコト」「一、後ニ到リテ知ル処ニ依リテ佐々木部隊〔第30旅団〕丈ニテ処理セシモノ約一万五千、太平門ニ於ケル守備ノ一中隊ガ処理セシモノ約一三〇〇、其仙鶴門附近ニ集結シタルモノ約七、八千人アリ・・・」。もっと露骨なのは、南京城南側の114師団歩兵66連隊第1大隊で、「南京付近戦闘詳報」に「イ、旅団命令ニヨリ捕虜ハ全部殺スベシ。」とある。公然と組織的な捕虜殺害が行われていた(吉田裕『天皇の軍隊と南京事件』(青木書店、1985年)104-106頁、笠原十九司『南京事件』(岩波書店、1997年)155-156頁)。

この近くには「魚雷栄」という、後述する虐殺の現場の一つがあるはずなのだが、タクシーの運転手に聞いても知らないという。そこで、下関の現場となった長江の川沿いに出てみることにした。下関周辺は再開発が進み、近くに地下鉄の駅ができるという。川沿いを歩いていると、偶然、南京下関歴史陳列館を見つけた。海運関係の地味な博物館だったが、若干だが南京虐殺関係の展示もあり、管理者の方に「魚雷栄」の場所を教えてもらった。金陵造船所のなかにあるようだ。国有企業のため、警備は武装警察が担当している。いろいろと交渉した結果、造船所のなかを通って、「魚雷栄」のところまで行くことができた。

私が「魚雷栄」という場所にこだわったのは、2018年5月13日、日本テレビ「NNNドキュメント2018」で放送された「南京事件Ⅱ―歴史修正を検証せよ」(番組の要約はYouTube制作者の話参照)のなかで紹介されていた捕虜大量虐殺の現場の一つだからである。この番組は、「南京虐殺はなかった」と主張する人々が根拠とする「自衛発砲」説を、その「言い出しっぺ」まで辿って検証したものである。

1937年12月、第13師団の山田支隊(歩兵第65連隊(福島県会津若松)基幹)が揚子江南岸沿いに進撃して、中国軍の退路を遮断する作戦を展開。12月14日に幕府山を占領した。上記の第16師団の下関とその周辺での捕虜虐殺とほぼ同時期に、揚子江沿いにたくさんの捕虜が集めて、92式重機関銃を使って射殺した。12月16、17日のことである。番組によれば、65連隊の第1大隊長だった田山芳雄少佐が現場の実行責任者であり、その護衛の上等兵の日誌には「今日は南京入城なり」「俺等は今日も捕虜の始末だ」「一万五千」とあったという。番組は第4中隊の少尉にインタビューし、戦後、田山少佐から箝口令がひかれたこと、「(捕虜を)解放しようなんてですよ、船もなしにね、よくそんなこと偉い人はぬくぬく言うなと・・・戦後記事になったでしょう。捕虜を釈放しろと言ったなんて、とんでもない詭弁ですよ」と語っていた。別の上等兵は日記にこう書いていた。「12月16日、捕虜せし支那兵の一部五千名を揚子江の沿岸に連れ出し、機関銃をもって射殺す」「その後、銃剣にて思う存分に突刺す」。

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ネット上の南京虐殺否定論のネタ元の、さらにネタ元が、『郷土部隊戦記』(福島民友社、1964年)であることを番組は明らかにする。歩兵第65連隊長だった両角(もろずみ)業作大佐が、1962年に地元紙(『福島民友』)に連載された「郷土部隊戦記」の第38回において、自身の手記をもとに初めて「自衛発砲」説を展開した。だが、大佐はこの日現場にはおらず、「自衛発砲」説には根拠が乏しいことを番組は、65連隊の下士官・兵の証言を積み重ねて明らかにしていく。番組では、両角大佐にインタビューした『福島民友』の阿部輝郎元記者に取材し、両角大佐の手記は昭和30年代に書かれたことを確認。インタビュアーの阿部記者自身も「(虐殺は)あったと思いますよ」と述べた。

番組では、ディレクターが、虐殺のあった揚子江沿いの海軍倉庫を探すシーンが出てくるが、そのなかで、「いまは造船所になっているので近づけない」という場面がある。今回、私は、この番組クルーが立ち入ることができなかった金陵造船所の内部に入り、虐殺が行われた「魚雷栄」の場所を確認し、そこの慰霊碑を写真に撮った。それが冒頭左の写真である。慰霊碑にはこう書いてある。

中国侵略日本軍南京大虐殺・魚雷栄遭難同胞記念碑

1937年12月15日の夜、中国侵略日本軍は、彼らの捕虜にされたわが市の庶民たちや武装解除された市防衛についた将兵ら9000人あまりを、魚雷栄へ連行し、機関銃で集団射殺した。同月、日本軍はまた魚雷栄や宝塔橋一帯において再び我が軍民3万人あまりを殺害した。遭難者の遺骸は、翌年の2月になるまで軍営や埠頭などの地域に晒され、その惨状は目も当てられなかった。その後、紅卍字会〔注:日本でいう「赤十字社」にあたる〕によってその場で埋められ、2月19日、21日、22日の3日間だけで、埋められた遺骸は5000体あまりにも達した。悲惨な歴史は忘れられ難く、過去を回顧するたびに感慨無量、特にここに石碑を立て、厳正に将来へ警告する。

「魚雷栄」の虐殺現場は造船所の一角にあり、警備の武警の人も含めて誰もが知っているようだったが、国営企業の内部にあるため、一般の人の立入りはできないようにされている。今回、幸運にもそこまで行けたが、工場の敷地内ということもあって、今後もこの場所が一般公開される可能性は低いように思われる。

ところで、冒頭に掲げたここの慰霊碑にもある「機関銃で集団射殺」。それに使用した92式重機関銃はあまり性能のいい兵器とはいえなかったようだ(故障も多かった)。

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私の研究室には、砲弾機関銃弾などがいろいろある。たまたま奥の方に92式重機関銃の「保弾板」を見つけた。これを今回紹介する。この鉄製の板には7.7ミリの92式普通実包(私が保有するものはもちろん火薬抜き)が30発(写真のものは2発不明)並ぶ。発射速度は毎分450発とされているが、30発を撃ち終わると保弾板を取り替えて給弾しなければならないので、米軍やドイツ軍の機関銃のような連射感覚があまりない。番組でも、銃身が真っ赤になるので水に浸した布をかぶせて撃ち続けるシーンを流していた。これで4桁の人間を殺したわけだから、機関銃を使ったあとに、銃剣や軍刀を使った「手作業」で殺戮を完成させた割合がかなり高いと推測される。実際、番組で紹介された兵士の証言にもそのようなものが多い。山田支隊の兵士たちを調査・取材した小野賢二氏(番組にも登場)は、捕虜殺害の行程の中では機関銃の銃撃は比較的短時間だったと言っている(小野賢二「虐殺か解放か 山田支隊捕虜約二万の行方」南京事件調査研究会編『南京大虐殺否定論13のウソ』(柏書房、1999年)152頁)。どんな殺し方も残酷だが、日本軍の大量殺戮には「手作業」感が強い。保弾板の写真の横にあるのは、30年式銃剣である。その上には、38式歩兵銃の弾薬5発を1セットにした挿弾子(クリップ)も置いてみた。南京では日本軍の装備の貧弱性が、顔の見える距離での大量殺戮を行わせたわけで、恨みもそれだけ深いのはもちろん、否定論への反発もそれだけ強いと言えるだろう。

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番組では、南京虐殺否定の政治家たちを紹介している。関西電力をめぐる疑惑の渦中にいる稲田朋美議員の顔写真も出てくる。「南京虐殺はなかった」という、かつてはごく一部でいわれていたことが、いまや政権中枢の有力意見になっている。メディアやネットでもその種の人物がしばしば登場するようになった。それだけ歴史修正主義首相をいただいた効果は、この7年近くの間に、日本の歴史問題における「空気」を一変させてしまった。名古屋の河村たかし市長のような戦闘的な歴史修正主義者の発言が批判もされずに、「市民権」を得てしまっている。

今回、南京虐殺の現場を歩いてみて、いろいろなことを考えた。何より、過去といかに向き合うかという課題において、日本はドイツと比べて、巨大な退歩をしてしまったことである。戦後日本が積み重ねてきた周辺諸国との歴史問題における「貯金」を、安倍政権の7年近くの間に大きく取り崩してしまった。ヨーロッパから見れば、日本は歴史修正主義者の政権ということになるだろう。

直言「過去といかに向き合うか、その「光」と「影」(その1)――アルメニア人集団殺害決議」を書いたのは、ドイツ・ボンでの在外研究中だった(「ドイツからの直言」参照)。1915年4月、オスマン帝国によるアルメニア人(アルメニア正教会系キリスト教徒)に対する強制移住と集団殺害が始まった。死者数をめぐり、アルメニア側は「100万以上あるいは150万人」、1915年当時のトルコ政府は「約80万人」、現在のトルコの公的歴史記述では「30万人」とされている。アルメニア人集団殺害問題では「30万人」が最も少ないというのは興味深い。この「直言」でも書いたが、「南京虐殺をめぐる日本の議論と同様、「何人殺されたのか」という数の論争はむなしい。いずこでも、途方もない数の人々の命が失われたことだけは確かである」。

20世紀初頭のアルメニア人集団殺害問題について、ドイツは、連邦議会決議という形で一つの歴史的決着の形をつけた。1915年当時はドイツ帝国である。決議は「ドイツ帝国は、オスマン帝国の主要な軍事的同盟者として、アルメニア人の組織化された追放や抹殺について、・・・この人類に対する犯罪を阻止しようとしなかった」として、「ドイツ帝国は、この一連の事件について共同の責任〔罪〕がある」と断定している。そして、この集団殺害が、20世紀の「大量抹殺、民族浄化、国外追放、まさに集団殺害(Völkermord)の歴史の手本となるもの」とすると同時に、直ちに、「ドイツの罪と責任に帰するホロコースト〔ユダヤ人大虐殺〕の唯一性を自覚している」とつけ加えている。

直言「歴史改ざん主義に抗して―映画「否定と肯定」と」でも触れたように、「南京虐殺」をめぐる数字の対立を見るにつけ、報道における細部のミスや歴史的事実の一部の不整合などを針小棒大にあげつらって、歴史的事実の全体を否定しようとする手法はどこでも共通している。安倍首相は歴史問題でのケンカではめっぽう強い。急に元気になる。安倍首相の朝日新聞「誤報」叩きのえげつない言説の数々は、彼が戦闘的歴史修正主義者であることを改めて確認させてくれる(直言「歴史的逆走の夏――朝日新聞「誤報」叩きと「日本の名誉」?」参照)。

歴史に対する誠実な向き合い方のできない人々の共通性は、ラルフ・ジョルダーノ『第二の罪―ドイツ人であることの重荷』(永井清彦訳、白水社、1990年)に出てくる「8つの情動」によって特徴づけることができる。ジョルダーノは、ナチス時代にドイツ人が犯した罪を「第一の罪」とすれば、「第二の罪」とは、戦後において「第一の罪」を心理的に抑圧し、否定することであるという。そして、その否定の手法はいずこでも共通していて、「殺されたのは600万ではなかった」とか、「他の連中だって罪を犯したのだ。われわれだけじゃない」といった8つの言い方(「8つの情動」)をする。「南京では30万人も殺されていない」「慰安婦はほかの国の軍隊にもいたではないか」という物言いも、これと同様だろう。この「第二の罪」を確信犯的に犯している首相を頂点にして、この国は、政治の世界でも、ネットの世界でも、歴史修正主義が「主流」になってしまっているようである。

南京の虐殺記念館のなかには、村山富市(1998年)、海部俊樹(2010年)、鳩山由紀夫(2013年1月)、福田康夫(2018年6月)といった首相経験者がかつてここを訪れた際の写真が掲げられている。これを屈辱的という言説が産経新聞を中心に日本にはあるが、歴史問題ではトップがまず形を示すことが重要である。1970年12月、ワルシャワゲットー記念碑の前でひざまずいたヴィリー・ブラント首相以来、ドイツは「記念日外交」を巧みに展開してきた。これを安倍首相に求めることは不可能だとすれば、それができる首相になるまで、日本はドイツとの距離をますます広げていくしかないのだろうか。

10月7日:中国建国70周年の「風景」――南京の旅(1)
10月21日(今回):「虐殺」の現場を歩く――南京の旅(2)
10月28日:憲法9条と「日本の空の非常識」を語る――南京の旅(3・完)

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