沖縄・ 読谷村 再訪  2006年5月15日

まから34年前の今日、1972年5月15日(月)午前0時を持って、第二次世界大戦後、米国の暫定統治下にあった沖縄が日本に復帰し、沖縄県となった。34年前も月曜日だった。なお、車が左側通行に変わったのは、6年後の1978年7月30日(日曜)午前6時だった。
  私が大学に入学した1972年4月、キャンパスは「沖縄」をめぐる集会やデモが頻繁に行われ、にぎやかだった。「4.28・沖縄デー」に続いて、「5.15」、「6.23」と続く。いまのキャンパスの長閑な風景からすれば今昔の感がある。
  いま、学生たちに沖縄が復帰した日のことを話しても、リアリティがない。来年、大学1年生として教える学生たちは、「ベルリンの壁」が崩れた年に生まれており、「平成生まれ」である。それだけ時がたったということである。

  さて、2カ月前の3月15日、沖縄・読谷村主催(沖縄タイムス社共催)の憲法講演会に参加した。慶応大学の小林節教授とは二度目で、大変気持ちよく議論ができた。その様子を、『沖縄タイムス』3月16日付は、「権力主導改憲を批判」と一面トップで報じ、翌17日付の社説でもこれに触れている
  今回の直言は、講演会開始前に、村役場の小橋川清弘さんの案内で、読谷村のなかの、私にとっての「名所旧跡」をまわったことについて書こう。小橋川さんは、広島大学に勤務していたとき、ゼミ生を連れて二度目の沖縄合宿をやった際、お世話をいただいた。彼が、「基地のなかに道路を通しました。次に緑を植えて公園にして、野球場や村役場をつくってみせますよ」と熱く語ったのを鮮明に覚えている。1994年10月18日のことである。私は「ほらー話」と思った。まさに、数年後に、「ほらーっ」とばかり、実現したからである。当時の手帳には、「すごい話術と魅力あふれる内容に圧倒される」とある。
  私は1997年11月に、当時村長の山内徳信さんと、『沖縄読谷村の挑戦』という岩波ブックレットを出した。私がこの「直言」で初めて読谷村のことを書いたのは、9年前の6月だった。県出納長になったとき出納長時代、そして、韓国の研究者とともに読谷村を訪問したときの話と、何度か触れてきた(新刊『憲法「私」論』4章も参照)。
  今回、上記ブックレットや『オキナワと憲法』(仲地博との共編)に収録した写真の「その後」を撮るため、米軍読谷補助飛行場内を車で細かくまわっていただいた。この9年間に5度ほど読谷村を訪れてはいたが、細かくみてまわることはなかったので、今回、その変化に驚いた。

  まず向かったのは、「ゾウの檻」と呼ばれる米軍の通信傍受施設である1997年の米軍用地特別措置法の問題が起きたとき、焦点となった場所でもある。その近くにある海兵隊の看板は朽ち果てていた(左写真)。「無断で立ち入ることを禁止します。違反者は日本国の法律に依って罰せられる」とある。ここにいう「法律」とは、安保条約第6条に基づく刑事特別法2条「施設・区域を侵す罪」のことで、1年以下の懲役である(一般の場所への無断立ち入りは、軽犯罪法で拘留〔1日以上30日未満〕または科料〔1000円以上1万円未満〕である)。日米合同委員会による返還告知の立て看板もある。この朽ち果てた看板が、「その後」を象徴している。補助飛行場の元・滑走路の車の量は、以前に比べて格段に増えていた
  役場から補助滑走路に向かう「道路」の入口には、「米国海兵隊施設 無断で立ち入ることはできません。違反者は日本国の法律に依って罰せられる」という標識がある。だが、その横を村民の車が普通に行き交う。建前上はまだ米軍基地だが、実質的には、住民の生活道路になっている。
  1997年に村役場が基地内に出来たとき、「すべてのものの娯楽を禁ずる キャンプバトラー司令官」という看板があった。役場もできて、住民の「立ち入り」が可能になったのだが、住民票をとりに役場に行くのはいいが、ここで遊ぶことはできないという、ギリギリの建前を看板の形にしたものだろう。今回、その看板は、他の案内標識に紛れ込んでいて、枠だけになっていた。近くの木々の間にも、朽ち果てた看板が見える。まだ完全返還前だが、新たな立ち入り禁止の看板を「新調」することはしないということだろう。

  1997年当時は、木に憲法9条と99条の条文が書かれていた木製の碑が、遠くに「ゾウの檻」を臨むアングルでまだ立っていた。しかし、9条と99条の文章はほとんど見えない。かつて、この木製の碑と「ゾウの檻」を重ねたアングルの写真を撮って、前掲拙著に使ったのが懐かしく思い出される(『オキナワと憲法』目次見返し参照)。
  1993年に初めて旧読谷村役場を訪問したときに撮影した、読谷村役場職員労組の看板も、何年かに一度改定されながら、2005年版が存在していた。13年前に私がこの看板を初めて見たとき、何が新鮮だったかというと、憲法9条と99条を並べて書いていたからである。
  旧役場の村長室の掛け軸も、9条と99条の二本並んでいた。私は当時、「平和の999(スリーナイン)」と呼んだ。「憲法9条を守る」のではなく、権力担当者たちに、憲法99条とセットで「憲法9条を守らせる」いう視点が大切なのである。読谷村は16年以上も前から、この視点を明確に打ち出していた。なお、旧役場前には、「二代目 読谷村役場跡」という碑があった。97年3月まで使われた旧役場への熱い想いがうたわれている。

  講演の時間が近づいたので、基地内の新しい村役場に戻った。役場前には、野球場もある。これは、海邦国体のとき、読谷村がソフトボール競技の会場に立候補し、基地内に野球場を作らせたという経緯がある。すべて日米地位協定2条4項「日米共同使用」の規定を巧みに使った、読谷村長のしたたかな戦略の結果である。基地内に出来た球場は、「平和の森球場」として、この日も球児たちの快音が響いていた。近くには、「不戦宣言」の碑もあった。

  読谷村役場の入口には、「平和の郷」と「自治の郷」という門柱が立ち、その上に立派なシーサーが鎮座している
村長室に入ると、山内徳信村長時代のままで、9条と99条の掛け軸がかかったいた。憲法99条とは、「国民」は含まれず、大臣・国会議員など権力担当者・「公務員」の憲法尊重擁護義務の規定である。その奥の打ち合わせ室には、山内前村長の「屏風」があった。いつ見ても感動的である。9年前にこの屏風を初めて見て、鳥肌がたつような感銘を受けた。そして、この屏風と基地内の役場のことを岩波書店の編集者に伝え、すぐにブックレットの企画が実現したものである。地方は末端にあらず、先端なり。読谷前村長が9年前に熱く語った言葉の一つひとつは、ブッシュ政権に追随し、時代遅れの「軍事同盟」に固執するこの国の現状をみるとき、実に重く響く。ここで、屏風のスケールの大きな文章を再現しておこう。


歴史を生きる

 

 人間の生命は有限である。自治体の生命は無限である。

未来永劫へと続く生命の源泉は人間の主体性 創造性

気概 情熱である。歴史を学ぶこと それは人生を生きぬく知恵と勇気

自信と誇りを身につけることである。

 

 沖縄! かつて琉球という独立国であった。

琉球は万国の津粱となり 大交易時代を築いた。

人間・文化・平和の尊厳を国是とし 武器なき王国として栄えた。

先人達は それを誇り 太陽の如く 奔流の如く

巌の如く 逞しく生きてきた。

 

 読谷! かつて「大北」と呼ばれた。

先人は 大北の自然を母とし 歴史を父として

この地に沖縄文化の黎明の花を咲かせた。唐商いの先駆泰期の進貢船を見るがよい。

赤太子の三線の音色を聴くがよい。

「聞け読谷村」

  「鳴誉む読谷山」のおもろを読むがよい。

美しい紋様の読谷山花織 勇壮な芸能 個性豊かな陶芸等

南方文化を摂取 止揚し 沖縄独特の文化を創り上げた。

 

 嗚呼!平和な島 琉球は 魔性の武力の前に潰え去った。

十七世紀 薩摩侵攻に始まる数百年に及ぶ苦難の道程は

明治の琉球処分 沖縄戦 異民族支配 米軍基地の重圧

正に沖縄県民への許し難い人権蹂躪の歴史そのものである。

 

 読谷村 は憲法の主権在民の精神を楯に 二重の国家を説き

未来へ飛び立つ鳳の礎をここに打ち立て風水とする。

今 ここに戦後五十二年 平和と自治 民主主義の殿堂として

赤瓦の甍が鳳の如く聳え立つ。

それは「人間性豊かな環境・文化村」を目標に

永久の歴史の批判に耐え得るむらづくりを目指す村民の

果敢な闘いの成果である。

 

 沖縄! 亜熱帯の太陽燦々とふりそそぐ大地である。

青い空 青い海 心豊かな島

感動的な自然の摂理は 母であり 神そのものである。

新世紀を目前に 新たな決意をしよう。

 

 地方は先端であり 地方主権を確立し 輝く地方社会を創ろう。

二十一世紀に向け 人類の共生・共存・協調の時代を創造しよう。

国境を越え 未来への持続可能な社会を創ろう。

美しいみどりの地球環境を守り 輝く宇宙の存続を誓おう。

 

 一九九七年四月一日

読谷村長 山内徳信

                

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