「政権交代」の意義と課題 2009年9月21日

9がつく年は歴史上、大きな変動がある。2009年、日本では政権交代が起きた。

海外メディアをチェックしていると、日本についてのニュースや話題は経済問題が中心で、政治はあまり注目されない。これが通例だった。しかし、この間はかなり違う。政治ニュースの扱いが早く、大きく、詳しくなっているのだ。

例えば、「8.30」総選挙のことを、ドイツの有名週刊誌は「地震的な出来事」(Seismisches Ereignis)という見出しで報じた(Der Spiegel vom 7.9.2009)。文中で、“Seiken Kotai”〔政権交代〕と“Yuai”〔友愛〕という二つの日本語が、訳を付けて紹介されていた。また有力紙は、「日本の普通化」(Die Normalisierung Japans) というタイトルの評論を掲げた(Frankfurter Rundschau vom 16.9)。「最近の選挙の後、ようやく普通の議会制民主主義になった日本は、すべての西欧民主主義国と同様、経済的にも普通の国になるだろう」と分析している。

他方、韓国の『朝鮮日報』は「日本に4代連続『世襲首相』」という見出しの東京特派員の記事を載せ、安倍・福田・麻生に次いで、首相の子・孫の首相が4代続くことを、コメント抜きで伝えている(電子版9月15日)。ただ、世襲閣僚は、麻生内閣の10人から2人へと激減した。これも政権交代の一つの効果かもしれない。海外各紙・誌の記事や論評を全体としてみると、今度の政権交代について、好意的評価の方が目立つようである。

海外メディアだけではない。私の家でも、母が「政治は面白い」といって、テレビのワイドショーをつけて、政治の動きを見つめている。いわゆる「後期高齢者」なので、政治には非常に怒っていた。だから、厚生労働大臣が初の記者会見で、その廃止を明言したことが痛快だったようだ。鳩山由紀夫新首相の記者会見も、最後までじっくりみたという。「あのダミ声が聞こえるとテレビを切る」といっていたので、すごい変化である。

その鳩山首相の記者会見。冒頭の言葉は、私にも印象に残った。「日本の歴史が変わるという身震いするような感激と、この国を本当の意味で国民主権の世の中に変えていかなければならない、そのための先頭を切って仕事をしていく強い責任もあわせて感じた」(『朝日新聞』9月17日付の要旨)。内閣発足時に「国民主権」という言葉を使った首相はいなかったのではないか。同じ記者会見でもう一度、この言葉が出てくる。「政治主導、国民主権、真の意味での地域主権のため、さまざまな試行実験を行っていかなければならない」と。論理的には、国民主権の方が前に来るべきだと思うのだが、そうしなかったところに、鳩山首相の国民主権認識が出ているようにも思う。つまり、「今回の選挙の勝利者は国民であ」る、その「国民の勝利を本物にしていくために、国民のための政治を作りだしていく」となり、「そのために、脱官僚依存の政治を今こそ世の中に問うて、実践していかなければならない」と。「政治主導」で官僚と向き合う際の正当化根拠を、国民主権に求めたわけである。また、「地域主権」(その学問的定義はともかく)という言葉についても、「真の意味での」という形容詞が付いていることに注目したい。自民党政権のもとで行なわれてきた「地方分権」(地方自治にあらず)と意識的に距離をとろうとしたものなのだろうか。

この首相記者会見。それまでの首相のように官僚作文を読み上げるのではなく、自分の言葉で語っていた。記者の質問に、メモをとって答えるという態度も好感度アップだった。麻生太郎前首相の言葉の軽さ、荒れ、不正確さ(漢字の誤読)との対比で、誠実かつ率直なイメージが、視聴者にしっかり印象づけられたように思う。「“たられば”には答えません」とか、「あんた、裏とっている?」という形で、人を見下した横柄な態度をとった前首相がひどすぎたこともあり、ものすごくまともに見えるのは、運のよさでもある。

首相だけではない。各閣僚の深夜におよぶ初記者会見でも、官僚メモを読み上げた人は皆無だった。深夜にもかかわらず、この記者会見の放映が、相対的に高い視聴率を獲得したのも頷ける。閣僚たちは目玉となる政策を明快に語って、各紙朝刊の見出しを付けやすくしていた。「マニフェスト」(この言葉には違和感があるが)を掲げた選挙の結果なので、当面、閣僚の発言には「ブレ」は少ないだろう。その意味で、内閣発足時のイメージ形成という点で成功したといえるだろう。

かつては、官僚に補佐されないと話もできない大臣がいた。私の記憶で鮮明なのは、30年前の大平正芳内閣の時。衆院予算委員会で、「これは重要な問題ですので、防衛局長から答弁をさせます」といった防衛庁長官がいた。この時は、自民党席からも失笑がもれた。今回の内閣によって、今後、自民党時代に通例だった、「今後勉強していきたい」という類の大臣は就任できなくなったのではないか。これだけでも、50年以上続いた日本的「政治文化」の終わりを強烈に印象づけるものだった。

本年冒頭の直言で、2009年を「復興の年」にすべきであると述べた「8.30」の結果、「復興」への歩みは確実に始まったといえる。国民の「骨を細めた改革」の傷をいやし、社会と地方の隅々でその体力を回復させることは並大抵のことではない。「後期高齢者医療制度」の廃止や生活保護の母子加算復活など、すでに新大臣の記者会見段階で明言されたことは素早い対応といえる。安倍晋三的「教育基本法」を再改正することも今後の課題だろう。当面、安倍時代に強引に導入され、現場の教師、特にベテラン教師の誇りも意欲を大いに減退させ、他方で大学教育学部の負担を増やした教員免許更新制度の廃止が打ち出されたことも評価できる。雇用、特に派遣労働についての「治療」は徹底してやる必要がある農業分野では所得補償だけでなく、農地規制の緩和について再見直しをすべきだろう。また、臓器移植法A 案の施行を停止する法案を出して、再度、この分野での法的な枠組を作り直すことも必要である。各論的な注文はいろいろあるが、今後、問題やテーマごとに直言でもとりあげ、批判や注文をしていくことになるだろう。

たくさんの課題を担うこの内閣は、いろいろな意味での「新しさ」があり、それを伸ばしていけば、この国の政治が大きく変わる可能性がある。ただ、憲法の観点からは、政権交代後の政権もまた、慎重にチェックしていく必要があると考えている。特に、主権者たる国民が、国会議員(第一院)の選挙を通じて、内閣(政権)を選択したのだという強力な正当化パワー(「国民内閣制」的な?)に依拠して、憲法や法律の手続を軽視したり、強引な手法を伴ったりしないという保証はないからである。

私がいま気がかりなのは、内閣のなかに「国家戦略局」(このネーミングは感心しない!)と「行政刷新会議」(腐臭を放つ「改革」という言葉を避けたのは正解!)を置いて、それぞれに強力な大臣をあてたことである。いかにも何かをやってくれるという強力な布陣で、興味津々ではある。ただ、国家行政組織法などの法律に基づく組織というより、閣議決定で「国家戦略“室”」として見切り発車させた。このような手法は今後、いろいろな方面でとられていくだろう。当面、衆議院の圧倒的多数の議席と、国民の支持があるということで進められるのだろうが、この選挙結果は、小選挙区比例代表並立制(実質は小選挙区制)の効果が極端な形で発揮されたことによる。得票率と議席占有率の開きもかなり大きい。「民意の反映」という面からすれば、有権者の圧倒的多数が民主党を支持したわけではない。その点で、「国民主権」を掲げて「政治主導」をごり押しすれば、憲法の内閣・行政に関わる原則との関係で問題が出てこないとも限らない。この点は、注意しておく必要がある。

もう一つ気になるのは、民主党の党内力学である。メディアが注目するのとは違った意味で、小沢一郎氏の存在が気になる。メディアがいうような「二重権力」論的な議論に乗るつもりはないが、決して曖昧にできない問題がある。

ドイツ紙の評論の見出しにあった「日本の普通化」。これは、政権交代が普通に行なわれる民主主義国になったということである。ただ、「ノーマル・ステート」「普通の国」、「普通になる」という言葉を使うとき、さまざまな含意や脈絡があることに留意すべきだろう。90年代、憲法9条により武力行使ができないのは「普通でない」として、小沢一郎が『日本改造計画』で「普通の国」論を展開した。私は、当時、武村正義氏(元内閣官房長官、蔵相)の著書『小さくともキラリと光る国』との対比で、小沢流の「大きくてギラリと光る『普通の国』」を批判したことがある(宇都宮軍縮研編『軍縮問題資料』1994年9月号、拙著『武力なき平和』岩波書店所収)。

20年ぶりに再び、小沢一郎氏が与党幹事長を務める政権が誕生したわけである。20年前は自民党幹事長として、軽量級の海部俊樹首相を自在に操り、10年前は自由党党首として、「自・自連立」政権の小渕恵三首相にプレッシャーをかけた。10年前、彼の思考と行動の危うさと危なさを指摘するために、小沢氏の「普通の国」論批判に重点を置いた、『この国は「国連の戦争」に参加するのか』(高文研)を出版した。「国際社会でいいという行動は、宇宙の果てまでともにする。…要請があれば地獄までも行く」(『朝日新聞』1996年6月7日付)という強烈な思い入れと思い込みが小沢氏にはある。テロ特措法による米軍への洋上給油活動を、「米国の自衛権発動を支援するものであり、国連の枠組みでの行動ではありません」と否定しつつも、他方で、「ISAF〔アフガン国際安定化部隊〕のような明白な国連活動に参加しようと言っているのです」と明言する。ISAFは純粋な国連活動ではなく、集団的自衛権システムのNATOが主体である。このあたりにも議論の荒っぽさが目立つが、それでもその発言力と影響力は絶大である。小沢的「剛腕憲法解釈」が直接に表に出ることは当面ないだろうが、楽観は許されない。

鳩山内閣は自衛隊の海外出動の本来任務化を今後とも続けていくのだろうか。行政の無駄遣いという観点でいえば、「防衛費」を聖域にしてはならない。「行政刷新会議」はポリシーのある「大根派」となって、「防衛費」を大胆に洗いなおすべきである。ただ、民主党の中堅・若手には、軍事や緊急事態の問題について、自民党の良識派よりも「過激」なタイプがけっこういる。6年前、有事関連3法案について、民主党の姿勢を「転進」として批判した。その後、9条改憲に賛成する議員は相対的に減ったという分析があるものの、これも楽観はできない。さしあたり、鳩山首相は、「新憲法制定議員同盟」(会長・中曾根康弘元首相)の顧問を辞めるべきだろう。一議員としてならともかく、内閣総理大臣となった以上は、改憲の動きにコミットすることは許されない(憲法99条)

憲法改正手続法の施行まで、あと半年あまりとなった。民主党は「マニフェスト」で、憲法については、「国民の自由闊達な憲法論議を」と書いている。改憲を直接に「マニフェスト」の対象にしていない。憲法の性格を権力制限規範とおさえた上で、立憲主義の基本認識の上に立った議論の仕方を説いている。改憲を指向する2005年「憲法提言」に基づくことをうたう以上、改憲の方向性は見て取れる。だが、自民党のような、まず改憲ありきの強引な議論の仕方とは明らかに距離をとっている点は重要である。「マニフェスト」で「自由闊達な憲法論議」をいう以上、安倍元首相が「私の任期中に」と、参議院で強行採決させた憲法改正手続法(国民投票法)については、予定通り施行する必要はないだろう。「自由闊達な憲法論議」のためにも、この法律の施行を止めるべきである。

対外関係では、オバマ政権との距離感覚が大事である。その点で注文したいのは、「日米同盟」という言葉を無批判に使うのはやめてほしいということだ。日本国憲法の観点からは、「同盟」という言葉は当然には使えないからである。先週、オバマ政権が東ヨーロッパで展開しようとしたミサイル防衛システムを撤回するというニュースが飛び込んできた。日米安保条約改定50周年を前にして、「日米同盟」という軍事的関係を薄めていくことが大切である。「日米安保条約」は、とうに過ぎた賞味期限を最終的に確認して、日米間のまともな関係を再構築していくべきだろう。その前提として、沖縄や本土の米軍基地の縮小や米軍地位協定の見直しは不可欠である

ついでながら、日本の投票所改革についても一言。総選挙直前のこの直言で書いた日本の投票記載台の欠陥については、総務省で直ちに検討を開始し、遅くとも来年の参議院選挙から、まともな投票記載台で選挙を実施すべきである。「ボディランゲージによる投票の秘密の侵害」という、この国の恥ずかしい状態を一刻も早く改善すべきだろう。

さて、今月27日、ドイツで総選挙が行われる。「ボン民主制」は保守のキリスト教民主・社会同盟(CDU/CSU)と社会民主党(SPD)の二大政党を軸に、自民党(FDP)と「緑の党」との連立政権の組み合わせできたが、この間は二大政党の「大連立」政権でやってきた。これが経済危機や雇用危機の進展のなかで、大連立は崩壊することが確実視されている。冒頭のシュピーゲル誌の表紙は「〔ドイツ連邦〕共和国はいかに左になるか?」というもの。この特集の主眼は、「全政党が社会民主主義になった」というもので、保守のCDU/CSUFDPまでが労働者から支持を集めるため、積極的な福祉・雇用政策を打ち出している。右が「左傾化」しただけでない。もともとの左派はさらに「過激化」しているという。SPDが長年にわたり新自由主義政策をとってきたことへの反発から、旧東独の政権党(SED)の残党や旧西の共産党、旧「新左翼」、SPD脱党派などが合体した「左派党」(Die Linke) がバイエルン州を除く東西ドイツすべての州で議席を獲得し、もしくは獲得見込みとなっている。東では3つの州でSPDよりも多数派で、ベルリンでは与党になっている。ドイツの地図は「赤く」なっている。ドイツの場合、二大政党制の時代は終わりを告げ、来週、ドイツでは二大政党以外の3党がかなり議席を獲得して、「多党化の時代」がより鮮明になるだろう。

日本でも、麻生内閣の末期、子ども手当てや高速道路料金などをめぐって、すべての政党が「左転換」したかのようだった。ドイツでも、保守系指導者の言動の「左転換」が目立つという(前掲Der Spiegel参照)。鳩山首相の「友愛」について、ドイツ誌は“Brüderlichkeit”の単語をあて、これは「左の響き」をもつと書いている。

「9.15リーマンショック」から1 年。世界各国で、新自由主義的政策からの離陸が始まっている。その際、二大政党制に強引に民意を「集約」するのでなく、ドイツのように多党化に向かうことも一つの選択だろう。その意味では、鳩山内閣は、現行の小選挙区比例代表並立制のままで次回総選挙をやるのか、この選挙制度の抜本的見直しをやるのか。見直す場合には、「マニフェスト」でいっている比例削減は論外である。むしろ、94年「政治改革」の根本的総括の上に、小選挙区制を軸とした現行選挙制度の再検討が求められている。

なお、自民党の加藤紘一氏は中選挙区制への復帰を主張しているが、私も基本的に賛成である。自民党は、政権党時代の深刻な総括と反省を行い、野党としての政権チェック能力を磨いていくことが、「再生」のための前提になるだろう。

 ともあれ、鳩山内閣の今後を、期待と緊張感をもって注視していきたい。

 

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