「偽」の年から「技」の年へ  2007年12月31日

07年最後の直言になった。今年は、1月1日と12月31日がともに月曜日という年だった。月曜に直言の更新をする私にとって、これは気になる。ともあれ、今年も毎週更新を続け、全部で53本を出すことができた。いつもお読みいただいている読者の皆さんの応援(メール)のおかげである。この機会にお礼申し上げたい。

  さて、今年の世相を漢字一字であらわすと何になるか。1年前の12月12日、清水寺の森清範貫主は「2006年・今年の漢字」を揮毫した。その時は「命」だった。安倍晋三首相(当時)は、記者から、「総理、今年を漢字一文字で表すと、どういう字になるでしょうか」と質問され、「それは“変化”ですね」と答えた。記者が重ねて質問すると、「それは“責任”ですね」と。記者は、「総理、それは二文字です。一文字でお願いします」という3度目の質問を発することなく、沈黙してしまった

  今年選ばれた漢字一文字は「偽」。あまりに直截な文字だったので、私もいささか驚いた。森貫主はいう。「己の利ばかり望む人が増え、こうした字が選ばれたのは実に嘆かわしい」(『東京新聞』12月13日付)と。それだけ、2007年は「偽り」が、この国のすべての領域・分野で突出した年になった。思えば、一昨年はマンションやホテルの耐震構造計算書「偽装」が大問題となったが、今年はというと、特に食品の偽装が次々に明らかとなった。賞味期限を偽り、成分表示を偽装し、生産地を偽り…。メディアの過剰反応も加わって、「食」への信頼は大きく揺らいだ(このテーマは来年1月の直言で詳述する予定)。そして、防衛省高官と防衛専門商社との癒着。この問題に関連した国会の証人喚問でも、「偽証」の疑いが濃厚である。そのほかにも、偽メール、偽名、偽作、偽書等々。「偽り」が世のメインストリームになったかの如くである。

  「偽」といえば、一昔前の話だが、「偽りの同盟」というのがあった。1941年後半の英国の対ソ政策を特徴づけた言葉だが、その中身は、ソ連に対する援助を約束しながら、独ソ戦におけるソ連の敗北を見越して援助をしなかったことに示される。チャーチルとスターリンによる騙しあいの関係であり、「敵の敵」の同盟政策でもある。10年前、タジキスタンで武装勢力に射殺された故・秋野豊氏(元筑波大助教授)の著書『偽りの同盟』(勁草書房)が思い出される(ある事情で、原稿段階で精読したので)。

  このように、国内の小さな偽装問題から、国際関係における「偽りの同盟」まで、この世界は「偽」に彩られているとはいえまいか。では、「日米同盟」というものはどうなのだろう。これは、究極の「偽装」ではないのか。メディアや論壇では、「同盟」という言葉が無批判に使われているが、日本国憲法の平和主義と「同盟」とは整合しないことに注意すべきである
   米国はイラクで泥沼に陥っているが、そこから脱するため、イランに照準を合わせ、新たな戦争理由を「偽装」しようとしている。イラク戦争そのものが、「大量破壊兵器が存在する」という「偽り」の情報によって引き起こされた。米国内でも、ブッシュ政権の「偽りの戦争理由」への反発から、政権への支持率は急落している
   「日米同盟」至上主義者たちにとって、新給油法案を通すことが目下の関心事だが、その最大の理由は「日米同盟」の維持である国民・市民に向かって、「テロとの戦い」や「国際貢献」をいいながら、その実は対米支援(軍事産業への「支援」)であるという本音が「偽装」されているのではないか
   「9.11」そのものや、「テロとの戦い」の怪しさについても、いずれ「偽装」の部分が明らかにされるだろう。

  いま、「テポドンが飛んでくる」からミサイル防衛システムを整備しようという動きが目立ってきた。1兆円以上の税金を使って、本当にミサイルを防げるのか。否、「テポドン」そのものが過大評価され、「偽装」された「脅威」に対して、過剰対応システムを「水増し請求」のオンパレードで導入しようとしている。米国レイセオン社と防衛族議員・官僚・軍事シンクタンク(御用学者を含め)との隠された関係を解明していけば、ミサイル防衛の本質が見えてくるだろう。米国と北朝鮮が日本の頭ごなしに手を結ぶのは、ミサイル防衛の整備が始まり、その支払いが始まってからになるだろう。「ミサイル防衛をめぐる闇」の深さは、「おねだり次官」と防衛専門商社との関係で問題となった輸送機のエンジンなどの比ではない。

  さらに、新型護衛艦に至っては、「護衛艦」といいながら、実質的な「空母」である。これこそ、「偽装」の見本だろう。また、安倍首相が訪米時に「日本がF22ラプターを100機購入する」というニュースが英国のメディアで報じられた。これは一体何だったのか。その後、情報漏洩などへの不信から、立ち消えになったかにみえる。いま、ステルス戦闘機を導入する動きが急である。国産第5世代戦闘機の開発をめざして、2013年(平成25年度)までに試作機をつくるという。先進技術実証機「心神」というステルス戦闘機である(『朝雲』2007年11月22日付)。これとても、一体、日本が相手国のレーダーにみつからないで、相手国の心臓部を叩ける飛行機を持ってどうする、の世界である。「専守防衛」の離脱を、装備面から裏付けることになるだろう。
   なお、価格の「水増し」の疑惑もある。来年度の概算要求で導入が決まったという陸自ヘリは一機216億円もする。AH64D戦闘ヘリコプター。ボーイング社製である。これを紹介した記事には、「『世界一高い戦闘機』の倍近く」という見出しがついている(『東京新聞』2007年11月27日付)。
   いま、これを含めて、背後にある防衛利権の闇について、国民は疑惑の目を向けはじめている。これはかつてない進歩である。しかも、国民にあれほど約束した年金問題をめぐって、与党はいま、実質的な公約破棄をやってのけた。これこそ「偽りの公約」だろう。眼力をつけた有権者は、今後、選挙でこれをどう判断していくだろうか。おりしも福田首相は、今年を象徴する漢字として、「信」を選んだ。これは「信を問う」とも用いられる、衆院解散に連動する生々しい言葉にもなる。

  2007年を象徴する一文字、「偽」。では、新しい年へ向かい、その「偽」を乗り越える視点は何か。いろいろと考えてみたが、ここはやはり憲法の平和主義の基本にかえることだろう。自らの力や能力を過大にみせるのもまた、「偽り」だからである。
   だとすれば、「技」。環境、災害、干ばつ、飢餓、疾病などの世界的な危機に対して、最も効果的に対応できる「技」をもった国。それが日本ではないか。すでに長年にわたる実績がある。災害救助や人命救助のプロがいる。「金しか出さない」という言い方で、自衛隊の海外派遣こそが「国際貢献」であるという流れが、湾岸危機以来続いている。いまこそ、この「偽」に対しても仕切り直しをするときがきたように思う。テロ特措法による洋上給油のストップはよい機会となった。災害救助や災害対策に自衛隊というのも、本来の任務やその事態に適切な対応・対策という点で「偽装」が含まれているのである。インドネシアの大津波被害への自衛隊の関与についても同様である。世界の「いま、そこにある危機」に対応するために、日本のもつ「技」が、来年、2008年、真価を問われてくるだろう。

  ところで、12月に入ってすぐに、『朝日新聞』月曜コラム「この人、この話題」欄に原稿を依頼された。16字×144行という、新聞としてはかなり大きなスペースである。2007年12月17日付4面に掲載された。この日の紙面は、1面トップと2面を使って、「島が動く」というバングラデシュの悲惨な状況についての記事だった。半世紀で20キロも陸地が海の方に動いた。「地球異変」の問題が浮き彫りにされている。15年前に出した拙編著『きみはサンダーバードを知っているか――もう一つの地球のまもり方』のテーマとも重なる。地球温暖化ないし気候変動の問題に、この国がどのように対処していくべきか。いまの対応では何が、どう足りないのか。今後の日本の対外政策や国際協力の方向と内容について、しっかりとした議論が必要だろう。「米国の、米国による、米国のための洋上給油」を継続するための国会「再可決」の議論ばかりが先行するなか、もう一度、根本的な議論を求めたいと思う。その議論の一助として、以下、『朝日新聞』に載せた小論を転載することにしたい。

 

「21世紀の小国主義」めざせ――国際協力

水島 朝穂 

  「国際貢献」という四文字熟語が頻繁に使われるようになるのは、90年湾岸危機の頃だった。誰が最初に使ったのかは不明だが、当時から、私はこの言葉から醸しだされる浮遊した響きに違和感をおぼえ、必ず鍵括弧をつけてきた。

  湾岸戦争が起こると、「石油に依存する、豊かな日本が何もしなくていいのか」というトーンで、自衛隊を海外に派遣することが「国際貢献」であるかのような言説が流布する。まずは多国籍軍などへの130億ドルの資金提供(この資金がどこで、どう使われたのか、現在もなお不明である)。その後、「日本は金しか出さないから感謝されない」という「湾岸トラウマ」が生まれた。

  「金出せ、人出せ、血も流せ」とばかり、米国からの派遣要求は高まる一方で、テロ特措法における「ショー・ザ・フラッグ」、イラク特措法では「ブーツ・オン・ザ・グラウンド」へとエスカレートする。目下、政府は、新テロ特措法案を成立させて、洋上給油を継続しようとしているが、この活動に感謝する「国際社会」とは誰のことなのか。米国とそれに従う国々だけが「国際社会」ではないはずである。

  また、米国などの武力行使に「油を注ぐ」給油活動は、日本国憲法の観点からみれば、「やってはならないこと」である。「不朽の自由作戦」(OEF)に従事する艦艇に給油する行動は、戦闘作戦行動の兵站支援であり、アフガン民衆の殺傷に手を貸す違憲行為である。

  見過ごせないことは、この「対テロ戦争」の背後には、「テロ」を口実とした米国を軸とする軍と軍事産業(防衛専門商社を含む)の癒着の構造があることである。そのことを、人々は薄々感じはじめている。「国際貢献」の本音が、武力による「国益」貢献であり、その裏に軍事産業の「企業益」や、政治家や官僚、高級軍人らの「私益」が複雑に絡み合っていることが明らかになれば、「対テロ戦争」の「正義」は大きく揺らいでいくだろう。

  私は、いまから15年前、自衛隊派遣による「国際貢献」ではない、非軍事に徹した国際協力のあり方を探るべく、友人たちと『きみはサンダーバードを知っているか――もう一つの地球のまもり方』(日本評論社)を出版した。非軍事の国際救助隊構想を、若さもあってテレビ人形劇シリーズを使って提案してみた。当時は自衛隊の海外派遣批判に重点を置いたため、いまからみれば、国連のPKO活動を批判しすぎたきらいもないではないが、日本がとるべき国際協力の方向と内容という点では、今にも通ずるものを含む。そこでは、国際救援活動のあるべきかたちとして、86年に発足した国際消防救助隊(IRT-JF)紛争介入型NGO「国際平和旅団」の活動を紹介した。IRT-JFの理念は「愛ある手」、「助けを必要とする人がいる限り、地球の上の何処にでも駆けつけ、どんな災害にも対処します。いつ誰が求めようとも」である総務省消防庁サイトから)〔消防防災博物館サイト「国際消防救助隊物語」概要も参照〕。

  これはサンダーバードの公平、中立、「見返りを期待しない」姿勢とも響き合う。日本は、アフガン戦争での洋上給油や、イラクへの自衛隊派遣のような、武力行使に加担する活動を一切やめ、常設の大規模な国際救援組織を、公平・中立な立場で運用し、世界各地の大地震やサイクロン被害などに対応していく。憲法前文・9条に基づく非軍事の活動を多様な形で展開すること、それに徹することが肝要だろう。

  そもそも憲法9条が、過去から学び、指し示すベクトルは、国の施策として、武力による手段を遮断するところにある。武力を使わざるを得ない場面でも、あえて武力を使わない知恵と工夫、軍事力の副作用を伴う即効性とは距離をとり、時間をかけた交渉や環境づくりの方法選択へと向かわせるわけである。

  これこそ、真の意味で「国際社会において、名誉ある地位を占め」(前文)ることにつながるのではないか。自意識過剰なナショナリズムに陥ることなく、日本にふさわしい方法で、医療や教育、災害救援、技術支援など、得意とすることを自然に進めていけばよい。いうなれば、21世紀型の新しい小国主義である。武村正義元蔵相の「小さくともキラリと光る国」(94年)の問題意識とも重なる。

  すでに自衛隊の海外派遣恒久法が具体化の段階に入ろうとしている。国連の決議さえあれば、武力行使を伴う国際治安支援部隊(ISAF)にも参加できるという議論もある。これらの発想に共通するのは、「大きくてギラリと光る普通の国」への道であろう。

  こうした方向をとらず、前述のような視点から、いますぐに出来ることがある。それは、クラスター爆弾禁止条約に賛成することである

  ノルウェーが主導し、NGOが積極的に関わる「オスロ・プロセス」。最近明らかになった条約案によれば、この爆弾を他国領域内で使用した国には、不発弾除去義務も課せられる。アフガン戦争での米国や、第2次レバノン戦争でのイスラエルなどが対象となる。条約案を検討する国際会議には130カ国以上が参加しているが、日本は米国とともにこれに反対し、合意が得られていない。

  思えば、98年に批准された対人地雷禁止条約では、小渕恵三首相(当時)の決断で、2003年2月までに自衛隊が保有する100万個が廃棄され、日本は「対人地雷全廃国」となった。福田康夫首相が「オスロ・プロセス」への参加を選択し、アフガンなどのクラスター不発弾除去に向けて、資金や技術提供、技術要員の派遣などを行うならば、多くの国々から高い評価を得ることになるだろう。

(『朝日新聞』2007年12月17日付4面オピニオン欄
月曜コラム「この人、この話題」より転載)

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