雑談(143)大学教員のお仕事(その3・完)――「人生のVSOP」と「出会い」再論
2024年4月8日


現役最後の講演は北九州市―紙一重で「ヒロシマ・コクラ」に
湾で大地震が起きた。日本の1.1大震災」に始まる2024年は、「大地動乱の年」を予感させる。政治の世界でも、自民党「裏金」問題に関連した「処分」をめぐって永田町動乱の気配である(共産党の除名処分も尾を引くだろう)。そこから逃亡して、明日、岸田文雄首相は、「国賓待遇」のバイデン詣でに出発する。国内では見せたことのない、こんな表情をまたするのだろうか。この国の政治の停滞と頽廃と腐敗は、極限にまで達している。論ずべき問題は多々あるが、事情により「雑談シリーズ」をアップする。

    330日、北九州市で早稲田大学教授としての最後の講演を行い、翌日、定年退職の日を迎えた。冒頭の写真は帰京前に訪れた小倉城である。桜祭りの最中だった。松本清張記念館に行こうと道路に出て、偶然、北九州市平和のまちミュージアムを見つけた。「運命の昭和20年8月8日・9日」という360度シアターにも入った。8日の八幡大空襲の影響が、小倉上空に晴れ間をたらさず、その結果、B-29は45分間旋回して、次の長崎に向かった。そのことを音と映像で体感させてくれる。「ヒロシマ・ナガサキ」は、ほんの少しの差で「ヒロシマ・コクラ」になる可能性があった(ナガサキの原爆瓦はここから)。展示のなかに、小倉市長の1946年9月8日の声明がある。これは初めて全文を読んだ。やはり「現場」に行けば発見があると思った。名刺の最後の1枚は、ここの館長代理の方とお話するときに渡した。新幹線が満席で変更不可だったため、「時間つぶし」のつもりで過ごした小倉の半日は、とても充実していた。

    先週の43日、71歳になった。ちょうど1年前のこの日、直言「雑談(13770歳に思う」をアップした。この1年間は実にいろいろなことがあった。ある事情から家族のことに時間をさくことが多くなった。入学式から授業や会議など、毎年の手帳はびっしり埋まるが、今はあまり手帳を開かない。13年近く「助教授」、28年間「教授」という仕事をしてきて、いつもの4月の動き方が染みついているので、かなり生活は変わったと思う。まもなく教授会で「名誉教授」の推薦がなされるだろう。世の人びとのなかには職名や職位呼称と誤解されている方がいるが、これは単なる栄誉称号にすぎない。図書館利用などに一定の便宜はあるものの、それ以上のものではない。さまざまな文書の職業欄に「大学教員」と書いてきたが、41日からは「無職」の項にチェックを入れるか、「その他」のところに「フリーのライター(言論人)」と書くことにしている。

    3月のうちに別れと感謝の言葉を書いたので(直言「さようなら、早稲田大学――大学入学から52年」参照)、今回は、雑談シリーズでこれまで書いてきた「大学教員のお仕事」について、「その3・完」をアップして締めることにしたい。これは現役の大学教員やこれから研究者・大学教員をめざす人々へのメッセージでもある。なお、冒頭の写真は、1984年に札幌学院大学の研究室のドアに付けられたプレートで、1989年に広島大学の研究室でも使い、1996年から早稲田大学の研究室のドアに貼っていたものである。40年間、常に私の研究と教育の身近にあった。「長い間、お疲れさま」といって取り外し、自宅に持ち帰った。その下は、早稲田大学法学会からの退職記念メダル。総長主催の定年退職者慰労会で記念品として頂戴した「ウォーターマン」のボールペンとともにここに掲げておく。

 

大学教員は「七者」

  「直言」のバックナンバーをクリックしていただくと、年別とカテゴリー別に分かれて配置されている。カテゴリー別の一番下に雑談シリーズが2つある。「音楽よもやま話」「「食」の話」、その下が「人生論、ネット論、閑話」である。目立たないのでご覧になった方は少ないと思うが、私自身がホームページの開設以降27年の間に体験し、あるいは出会い、あるいは気づき、あるいは考えたことを、このコーナーにまとめて出している。

  「大学教員のお仕事」について初めて書いたのは47歳の時だった(「その2」はその年の雑談(7)参照)。そのなかで、大学受験予備校の理事長の言葉を紹介している。

「予備校の教師は『五者』でなければならない。学者、役者、芸者、易者、医者、である」と。まず、当該科目の専門家という意味で「学者」でなければならない。同時に、インパクトのある授業ができる「役者」であることはもちろん、時として教室を笑いに包むほどの「芸」の持ち主でなければならない。そして、「これは試験に出るよ」と言ってピタリとあてれば、まさに「易者」。そして、「来年も一緒にがんばろう」と励ます言葉の一つひとつは、受験生の心に響く。ある司法試験予備校の超人気講師の「声のテープ」は精神安定剤のように使われているという。まさにメンタルな面での「医者」である」。

   この「直言」で私は、「予備校教師について言われていることは、程度の差こそあれ、大学の教員にも要求されているように思う」と書いて、大学教員ついて私は「七者」という視点を打ち出した。「五者」に続くのは「記者」である。ジャーナリストというのはアカデミックな世界とは違うという人がいるが、私は「真にジャーナリスティックなものはアカデミックであり、真にアカデミックなものはジャーナリスティックである」と考えている。私の仕事もそういうものでありたいと思ってやってきた(直言「雑談(60) 若き日の体験的教育論」参照)。

    もう一つは「武者」である。これは、どんなに高齢になっても弱音を吐かず、学生たちに対して、チャレンジする姿勢をとにかく「見せる」ことである。30歳から40年近くゼミをもったが、若い頃はゼミ合宿などで学生たちとほとんど同じスピードと感覚で動けたが、年齢を重ねるに従ってそれは無理になった。22年間、1年ゼミ(導入演習)の学生たちを引率して「霞が関・永田町ツアー」をやったが、東京地裁での裁判傍聴から国会見学、弾劾裁判所見学と一気に行うわけで、これはけっこう体力を使った。その時私は65歳。40代の時と変わらないテンポで1819歳の若者を連れてまわった(右の写真は裁判官弾劾裁判所見学(2005613))2019年が引率の最後になった(コロナになり5人ずつの班ごとの見学に)。34年専門ゼミ(主専攻法学演習)で隔年・12回やった「沖縄合宿」も体力勝負だった。年をとっても先頭に立って取り組む姿勢は失ってはならないという意味で「武者」である。私の弟子たちにも、程度の差こそあれ、この「七者」であろうと努力してほしいと願う。

   26年前の42日、42歳の時に、大学院に入学する人たちに祝辞を述べたことを思い出す(写真参照。祝辞全文はここから)。そのなかにこうある。

「…体を動かすことは健康にいいが、思考や思索にも非常にいい。体を動かすことが動脈硬化を防ぐように、「学問研究の旅心」は、思考の硬直化・一面化を防いでくれます。A rolling stone gathers no moss.「転石苔を生ぜず」です。私は12年間いろいろな旅をするなかで、一か所にとどまっていたら発見できなかったようなテーマや問題と出会ったのであります。専門の枠も確かに大切です。しかし、その枠に閉じこもっていてはいけない。他の分野の人々との交流、あるいは学問研究とまったく関係ない、意外な人々との交流。これが存外大切なのです。ワクが増えるとワクワクするじゃないですか。…」

      いくつになっても「学問研究の旅心」は忘れないで歩んでいきたい。

 

再論、「人生のVSOP

53歳になったときに、人に聞いた話をもとに、直言「人生のVSOPをアップした。

 「…20代はヴァイタリティ(vitality)、30代はスペシャリティ(speciality)、40代はオリジナリティ(originality)、そして50歳以上はパーソナリティ(personality)が軸になるというものである。力にまかせて、無理を重ねても仕事ができた20代。しかし、30歳になる前に悩むことが多い。30代は今までの自分になかった能力を身につけるとか、資格をとるとか、新しい課題にチャレンジするとか、「これだ」と思ったテーマを深く掘り、まさに自分だけのスペシャルを身につける10年となる。そのスペシャリティを活かして、40代には自分のオリジナルな仕事をして、それが評価される。50代以降は、どんなに焦っても20代の体力はないし、30代のチャレンジはできないから、40代で確立した評価を基礎に、後進を育成する視点を加えていく。自分に出来なくても、自分より若い者たちにやらせて、成果をあげていく。「この人のもとで仕事をしよう」という人間的魅力が、50代以降の軸となる。ただ、これらはあくまでも、その年代の特徴と言っていいだろう。50代以上でも第一線に立ち、常にヴァイタリティとスペシャリティ、オリジナリティは忘れないでいたい。…」

 71歳になった私としては、「VSOPプラスL」で、個性あふれる人と人とを繋いでいく「リンク」(link)の役回りとともに、やり残したテーマや、やってみたいテーマにチャレンジしていくスペシャリティも忘れないでいたい。
   ちなみに、ブランデーの「V.S.O.P.」とは、very(非常に)、superior(優良な)、old(古い)、pale(透きとおった)の略語である。oldといえば、45年前にドイツのマインツ大学で、ラインラント=プファルツ憲法の制定過程の資料をコピーして段ボールに入れて日本に送り、一度もあけないまま札幌・広島・東京と引越しを重ねてきた。今度、この段ボールをあけて、1947年の初期ラント憲法の研究でも始めようかなとも思っている。


「出会いの最大瞬間風速」

  「大学教員のお仕事」を閉じるにあたって、やはり「出会い」の大切さを指摘しておきたい。人との出会い、テーマとの出会い、「時間」「場所」「機会」の総合としての出会いが人生の駆動力となる。だから、まず自分から足を踏み出す。「出ないと会えない」である(直言「雑談(62)出ないと会えない」 参照)   私はこれまでの人生のなかで、「出会いの最大瞬間風速」を何度も体感してきた。その時に会わないと二度と会えない。
     一番後悔しているのは俳優の菅原文太さんとのことである。20138月に菅原さんがレギュラーをされているニッポン放送の「菅原文太 日本人の底力」というラジオ番組に呼んでいただき、初対面で対談した。開口一番、安倍晋三首相(当時)が内閣法制局長官を強引にすげ替える人事を行ったことに強い疑問を呈し、「なぜそういうことをするのか」と低い声で質問してきた。話が多方面にわたり長くなってしまったので、菅原さんが「来週もやりましょう」という。実はラジオなので、長く話した対談を2週に分けて放送するということだ。2週目の冒頭の「今日もよろしくお願いします」みたいな一言を入れて収録は終わり。そして、別れ際、菅原さんの農園が私の八ヶ岳の仕事場の近くにあることがわかり、是非訪ねてほしいと誘われた。だが、そのままになった。翌年12月、菅原さんは亡くなった。そうしたなか、20191月になって突然、奥様からメールがきた。間髪を入れず、菅原農園を訪れることに決めた。その時のことは直言「菅原文太さんのこと(その2八ヶ岳の農園にて」に書いてあるが、それ以来、私は「思い立ったら、思い切って会う」と決めている。

    先月、研究室の片づけで出てきた昔の写真や抜き刷りをみて、思わず懐かしくてその場から電話したところ、その人も実は重要なことを私に相談しようと迷っていたところだった。しばらく電話で話して問題は解決した。海外に留学中の1年ゼミで教えた学生にメールをすると、何と一時帰国していて、近くの駅にいるという。すぐに研究室にきてもらってしばし話をした。その彼に、片づけが終わった研究室でシャッターを押してもらったのがこの一枚である。彼が留学先から一時帰国していなかったら、この写真はなかった。

    というわけで、世界でも日本でも大動乱が始まっているなか、雑談シリーズ「大学教員のお仕事」の「その3・完」で締めさせていただいた。

《付記》今年119日に行われた私の最終講義の動画を、大学と学部の許可を得て視聴できるようになった。正味88分ある。
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